英雄の証
このザッハークは兄を神官に持ち、彼自身も地位の高い魔導士のひとりであり、その中でも魔導具つくりの名手としての名もあった。そして、この男はアレクの伯父でもあったのだ。
ザッハークはメミスの周りに広がる農園で取れるブドウで作った上質なワインを片手に、残った手は女の腰に回して上機嫌に酔っていた。そんなザッハークに対して女は嫌な顔をしつつも抱かれる。貴族であるだけで平民は逆らえないというのに、魔導士であればなおさらだ。
「酒はまだかって言ってるんだ。俺様を誰だと思っているのだ!」
魔導士であるザッハークは自分の持つ権力と金を使い、人々から忌み嫌われる貴族の一人でもあった。だが、このザッハークは金使いが荒く、常に借金ばかりで家財道具を売り払ってまで見栄を張るような奴で、アレクの父が継いだ――つまり神官の家系である本家の財産を欲しがっていた。そして、機会があれば神官にもなりたいと考えていた。
何時しか神官の欠員が出た時、ザッハークも神官候補として名前が上がったのだが、酒に溺れ借金ばかりしている男は神官としては相応しくないとされて、神官に成り損ねた男なのだ。だが、この国の魔導士は数が少ないため、魔導士であればまた神官になるチャンスが巡って来ることもある。
魔導具つくりの腕は名手と言われようが、仕事がもらえなければいい酒も飲めない。そのことがよけいにザッハークを酒へと走らせる。
酔ったザッハークの手が女の腰から尻へと伸ばされる。だが、その手は丁重に振り払われる。
「ザッハーク様、私は娼婦ではございませんの。そういうことは他所のお店でなさってください」
「いいじゃねえか、尻ぐらい触っても減りはしないだろう」
「ザッハーク様が神官様におなりになられたら考えますわ」
誰もがザッハークは神官になれやしないと思っている。思っていても誰も口では言わない。しかし、ザッハークにもそれはわかっていた。だから、そのことを言われると酔いも醒めてしまう。
ザッハークは酒を飲むのを突然止めた。まだまだ飲み足りないが、今日は金の工面が付かず持ち合わせがほとんどなかった。兄に借金を頼みに行って断られたばかりなのだ。
金を持っていないのなら、ザッハークの地位で酒代を踏み倒すということもできないこともないが、彼にもプライドがある。
覚束ない足取りで立ち上がったザッハークはテーブルの上に銀貨を二枚置いて店の外に出た。この瞬間、店員たちはほっとした表情を浮かべた。
酒場を出たザッハークは定まらぬ視界で辺りを見回した。
日は沈み、夜の蒼い風が吹いている。
魔導灯と呼ばれる魔導力をあらかじめ入れて置くことによって輝く街灯のお陰で、都市からは夜の闇の恐怖は消え、夜遅くまで人々が外出をしている。だが、今日に限っては人がひとりもいなかった。
酔いが醒めたせいか、ザッハークは身体を震わせて背筋を通る寒さを感じた。だが、どうやらまだ酔いは醒めていないらしい。
視界がぼやけ、霧に霞む光景。歪む地面。灰色の空。
どこか不思議な場所に迷い込んでしまったかの光景がザッハークの眼前に広がっていた。
ザッハークは頬を両手で叩いて首を振った。酔いを醒まそうとしたのだ。だが、酔ってはいるが幻覚を見るほどではない。
強い風に吹かれ、ザッハークは腕で顔を押さえた。――魔導力を帯びた風。魔導士であるザッハークは身体全身を振るわせた。それは恐怖だった。
黒い霧がザッハークの目の前で渦巻き、ローブを纏った人型を作り出す。頭巾を被った者の顔は見て取れない。
ローブが風に揺れた。
「金と権力、世界の全てが欲しくはないか?」
突然のことにザッハークは何も言えずにたじろいだ。
風が巻き起こり、ローブが激しく揺れた。
次の瞬間にはローブを纏った人物はザッハークの目と鼻の先に立っており、ローブから伸びた手によってザッハークの口は鷲掴みにされていた。
「うぐっ……うう……おまえは……!?」
ザッハークは頭巾に隠されていた顔を見た。その顔とは!?
鷲掴みにした手から蟲が放たれた。それは細長く、ザッハークの口の中に入って食道を通り、身体の中に進入した。
この蟲は人の悪の心を喰って成長し、人間を思いのままに操る蟲なのだが、ザッハークはそんなことなど知る由もなかった。
一度気を失ったザッハークが目を覚ますと、そこは歓楽街の裏路地だった。
「夢か?」
いつものように女遊びをした挙げ句に酒によって泥酔していまい、そのまま倒れるように寝てしまったのか?
ザッハークは腹を擦りながら嗚咽を漏らした。これは酒のせいか、それとも……?
全ては夢だったとザッハークは自分に言い聞かせ、暗い夜道を歩きはじめた。
ベッドの中に入ってどれくらいの時間が経っただろうか。
――寝付くことができない。
アレクはしかたなく眠ることを止めてベッドから起きた。
部屋の外に足を運ぶと、長い廊下は少し冷え冷えとしており静けさに満ちていた。
手にランプ持ったアレクは足音をなるべく立てぬように、ゆったりとした足取りで廊下を歩きはじめた。
神殿で過ごす初めての夜は緊張と不安で、鼓動の高まりが治まらない。
ラーザァーに選ばれたアレクはその次点で神官候補として有望だということが言える。そして、今回の働きによっては神官への道が大幅に近付く。そのためアレクに肩には大きなプレッシャーが伸し掛った。
アレクは生まれた時から父によって歩むべく道を決められて魔導士となった。そして、怪物が四十年に一度この都に来ることは決まっているので、この年にラーザァーにならねばならなかった。決められたレールがあり、そのレールから外れたことはない。アレクは父の期待にいつでも答えてきたのだ。
暗い廊下の先に淡いランプの光が見えた――人影だ。
淡いランプの光は素早い動きで廊下を曲がって隠れてしまった。その動きがたどたどしく逃げるようだったので、アレクは不審人物かもしれないと思い、すぐに後を追った。
謎の人物は廊下を曲がってすぐにところに立っていた。その人物と目が合ってしまったアレクは思わず声を張り上げてしまった。
「ザヴォラムじゃないか!?」
「大きな声を出すな、皆は眠りについているのだぞ」
「そんな時間におまえは何をしているのだ?」
「その問いはそのまま返そう」
「そうやって答えをはぐらかすのは卑怯だと思うぞ」
「何が卑怯だ、理屈が通じぬな」
二人は押し黙ってしまった。
アレクは緊張して眠れないなど口が裂けても言えるはずがなかった。
言葉も途切れたところでザヴォラムは何事もなかったように歩き出した。それに対してアレクは特に用もないのに呼び止めてしまった。
「どこに行くのだ?」
「見回りの途中だ」
「私も同行する」
「好きにするがいい」
見回りの途中だったのか、とアレクは少し落胆した。ザヴォラムも緊張や不安のせいで寝付けぬのなら、心がだいぶ休まっただろうに。
静かに二人が神殿内を歩いていると、やがて中庭に通じる道に出た。
星々が煌く宇宙のもとで、水面に揺れる静かな月。
作品名:英雄の証 作家名:秋月あきら(秋月瑛)