英雄の証
アレクは他人といる時はいつも緊張が張り詰めた状態で心が休まらない。こうして一人でいる時が最も心が休まる時間だと言えればいいのだが、そうでもない。一人でいるといらぬ考え事としてしまい、不安が募るばかりで胸が締め付けられる。アレクが気を休める時間などないのだ。
しばらくしてノックの音が聞こえた。すぐにアレクは飛び起きて背筋を伸ばす。
「どうぞ」
部屋の中に入って来たのはシルハインドだった。
「約束どおりやって来たぞ」
「来ないと思っていたが……?」
「どうしてだ?」
「てっきり私は、おまえは侍女と……」
アレクは恥ずかしさから言葉を詰まらせたが、シルハインドはアレクが何を言いたいのか理解した。
「ああ、あの侍女とはまだ何もない、夜にまた会おうことにした」
「そうか、何もなかったのか、それはよかった」
「よかったってどういうことだ?」
「おまえに泣かされた女がどれだけいると思っているのだ?」
アレクに軽蔑された眼差しで見られたシルハインドは笑ってごまかした。
「そんな話誰に聞いた? 俺は誰も泣かしてなどいないぞ」
「もういい、おまえの話を信じよう」
「なんだその言い草は、信じていないだろ?」
「本当に信じたから、その話はもう終わりだ」
「信じようが信じまいが、まあ今はいいとしよう。それよりも、これをおまえの渡しに来たのだ」
シルハインドは自分の指にはめていた指輪をアレクに手渡した。
手渡された指をアレクはまじまじと見つめた。蒼く輝く宝石のついた指輪の輝きは、シルハインドの持つソーサイアの魔導具の輝きに似ていた。
「なんだこの指輪は?」
「俺の持っているソーサイアの魔導具と一緒に見つけたものだ。魔導具のような気を発しているが、効力は不明だ。お守り代わりだと思ってもらってくれ」
「ありがとう、快くもらうことにしよう」
「では、俺は自分の部屋に帰るよ」
「もう行くのか?」
「ああ、少し外に出てくる」
「外出が禁じられているのことを忘れたとは言わせないぞ」
「俺が守ると思うか?」
シルハインドは背中越しに手を振って部屋を出て行ってしまった。
「まったく、あいつは……」
アレクはもらった指輪を指にはめて少しだけ微笑を浮かべた。
アレクが出て行った後、人払いをしたこの部屋に残ったのはキルスと巫女だけであった。
静かな眼差しでキルスは巫女の瞳を見据えた。巫女のことを全く動じず見据えられる者はキルスを措いて他にはいないのではないだろうか。
「巫女はなぜあの者をお選びになられた?」
あの者とはアレクのことだった。
巫女は無邪気な笑みを浮かべ答えた。
「わからぬ。ラーザァーの選定は自動的じゃて、真意を知っておるのはムーミスト様だけじゃろう」
「変革の時ということになるのか、はたまた神の気まぐれか」
「気まぐれとは口が過ぎるぞ、神官長の言葉とは思えぬ」
「なりたくてなったのではありませんゆえ」
キルスは笑って見せた。
巫女にとってこの男だけは計り知れない。双子でありながら、キルスのことだけは視えないのだ。巫女にとって怖ろしいものがあるとすれば、このキルス以外に他ならないのだ。
肩に寄り添い甘える精霊の頭をそっとキルスは撫でて天を仰いだ。
「あの者が女であることは黙さねばならない。女が魔道士になっただけでも問題であるのに、ラーザァーに選定されたとなれば暴動となるだろう」
「この秘密はわらわ3人の心に留めなくてはならぬ」
「心配ない、ローゼンは口が堅いからな」
そう言ってキルスは肩に寄り添う精霊ローゼンを愛でた。
ローゼンは悪霊ではないが、キルスは完全に憑かれている。少なくとも巫女はそう思っている。
日に日にキルスの生命力を含める魔導力はローゼンを生かすために費やされ、キルスの身体は内面から蝕まれている。キルスが天寿を全うすることは到底ありえないのだ。
神殿内に蔓延るキルスとローゼンに関する噂。その中でも誰もが口にするのは『キルス様はお変わりになられた』である。
キルスは静かに部屋を出て行こうとする。その背中を見つめる巫女の瞳は物悲しい。生前のローゼンとキルスの仲が、今でも目を瞑ると思い出される。あの時のキルスはあんなにも輝いていたのに……。
巫女のもとを去ったキルスは一直線に自室に向かう。昔から部屋に引きこもる傾向のあったキルスだが、ローゼンを身体に取り憑かせてからは、それがひどくなった。今では公式の行事でもない限り、部屋にこもりっきりだ。
自室に戻ってきたキルスは椅子に腰掛け、机の上に置いてあった手紙の封を切る。
手紙の内容は、他国で戦争や内乱が頻発していること、神々のようすが可笑しいこと、土地が荒れ、天変地異が頻発していること。その他、メミスの都外で起きている事象について記されていた。
風の噂では近々隣国がメミスに攻め入って来るとの情報もあり、キルスの憂鬱は晴れることがない。いっそのこと世界全てが滅んでしまえばいいと感じることもある。誰もが報われるわけではない、ならば全てが滅んでしまえば喜びも悲しみもなくなり、全ては平等になるのではないかと考えるほどだ。キルスの心は卑屈になっていた。
巫女とキルスはアレクが女であることをひと目見てすでに見抜いている。キルスはそこに淡い期待を覚える。女が魔導士となり、正式なラーザァーになろうとしている。このまま隠し通せれば、アレクはおそらく神官となるだろう。
変革の時。全てはムーミストの導きと考えるのがメミスの民としての道理だろう。世界は常に変わり移ろうもの、だからメミスも変わらなければならない。キルスは変革を心から楽しんでいるのだ。
キルスの肩に寄り添うローゼンの口から微かな声が零れる。
「キルス……様」
「わかっている、ローゼンの気持ちはわかっているよ」
胸が締め付けられる思いだった。ローゼンが何を言おうとしているにか、本当はわからない。わかりたいと思うだけなのだ。それがキルスにとって酷く哀しいものとして圧し掛かる。
霊となってキルスの身体に封じ込められた当初のローゼンには人間としての感情があった。それも時が経つにつれて失われ、崩壊し、今では名前を呼んでくれるだけだ。このままではローゼンは再びキルスのもとから消えてしまう。それだけはなんとしても防ぎたかった。
全てが己のエゴであり、ローゼンの魂をこの世に縛り付けることは本当の幸せではないかもしれない。全ては過ちであったかもしれない。しかし、ローゼンがいなくなることは、キルスには到底耐えられない。いつか消えてしまうのがわかっているからこそ、怖ろしい、怖ろしくて堪らないのだ。
キルスは愛しいひとを強く強く抱きしめた。
それなのに、ローゼンの表情は無表情なままだった。
メミスが大きな国となっていくにつれて人口が増え、いろいろな考えを持つ者たちが現れた。その中にはこの国の守護神であるムーミストを外面だけで信仰する者もいた。
魔導士である中年男のザッハークは、まだ日が沈み切っていないうちから、女を囲って酒を飲んでいた。
「酒が切れたぞ、早く酒持って来い!」
作品名:英雄の証 作家名:秋月あきら(秋月瑛)