英雄の証
「私はアレクです。アレクサンドラなどという名前ではありません」
必要以上に否定するアレクの顔を母は哀しい瞳で見つめていた。
この時代に生まれたのがいけないのか、特別な血を持って生まれたのがいけないのか。恐らくはこの家に生まれてしまったのかいけなかったのだろう。
目を瞑った母の目じりから一滴の涙が頬を伝って落ちた。
「わたくしはおまえが不憫でなりません。他の家の子として生まれれば、農民の子に生まれれば魔導士などにならずに済んだのに、父を神官に持ったばかりに、おまえには辛い思いをさせてしまったわ」
「私は母上の子として生まれることができて幸せです。ですが、もう後戻りはできないのです。――行ってきます」
急に立ち上がったアレクは母の言葉をもう何も聞かないうちに部屋の外に出た。母といると自分が女に戻ってしまう。心は掻き乱され、押し寄せてくる苦しさからアレクは逃げた。
女である母は幸せだ。それなのに、自分は男でも女でもない。どちらにもなれない自分が惨めに思えてきた。
心を落ち着かせながらアレクは家の外に出ると、騎獣小屋に向かった。
アレクの騎獣は蝙蝠の翼を持つ黒馬――バーホースであり、この国でも空を飛べる馬を所有するものは数少ない。
蝙蝠の翼を持つバーホースの他にも、鷲や白鳥の翼を持つバーホースもおり、翼を持つ全ての馬の総称をバーホースという。その中でも蝙蝠の翼を持つバーホースは気性が激しく、騎獣になることはまずない。しかし、この牝のバーホースはアレクと相性がよく、アレクのいうことだけは聞く。
「さあ、イーラ、神殿までひと飛びしておくれ」
アレクはこのバーホースに詩や歌の意味を持つイーラという名をつけ与えた。アレク以外の者にすれば、気性の激しい荒くれ者のバーホースにイーラという名は相応しくないと言われる。しかし、アレクはこの名こそが、このバーホースに相応しいと思っている。
イーラの首を繋いでいた魔導錠を解き放ち、背中に騎乗したアレクは手綱を強く握った。
地面を強く蹴り上げイーラが騎獣小屋を飛び出す。
数メティート(1メティート=1.2メートル)地面を走ったところで、イーラが地面を激しく蹴り上げ、黒い翼を大きく広げた。次の瞬間、イーラはアレクを乗せて天高く舞い上がった。
青空が広がり、眼下にメミスの都が小さく見える。遥か遠くまで続く地平線の先には、天を衝くザルハルト山が見える。
「イーラ、少し高く上がりすぎだぞ。神殿まで行くのに、ここまで上がる必要はないだろう」
イーラは声高らかに鳴くと、急降下をはじめた。
「おいおい、はしゃぎすぎだぞイーラ」
アレクを背に乗せたイーラは興奮し、今にもアレクを落としてしまいそうなほどだった。
身体全身でアレクは風を感じた。風は生命の息吹を運んでくれる。とても心地よく、清々しい気分になる。アレクはイーラに乗っていると、魂を解放した気分になる。
魔導大国として名を馳せたメミスの都は華やいでいる。こんなにも恵まれた国は他にはないだろう。だから、四〇年に一度、怪物たちが攻めて来ることがわかっていようとも逃げ出さない。女神ムーミスの加護の元、恵まれた国を誰しもが守ろうとする。
メミスの都は他の都市のように高くて頑丈な壁で囲まれている。その理由は他国の侵略から都市を守るためと、四〇年に一度攻めて来る怪物から都市を守るために頑丈な壁で都市を囲っている。大抵の怪物は壁とムーミストの加護により、都市に侵入することができないが、稀にだが空からの襲撃がある。そのためにバーホースに乗って監視をする職務を担う者がいる。アレクもその一人だった。
アレクの視線にバーホースに乗った魔導士が入った。すぐにその魔導士の元へイーラを飛翔させる。
バーホースに乗った若い魔導士が手を振る。
「やあアレク、バーホースに乗ってどこにお出かけかな?」
「神殿に呼ばれたのだ」
「ほお、それはすごいじゃないか。この時期に呼ばれるとなると、ラーザァーしかない。さすがはメミス第一飛空部隊の部隊長殿だ」
「まだ、ラーザァーに選ばれたと決まったわけではないさ」
決まっていないと言いながらも、アレクの表情はにこやかだった。期待は重荷にもなるが、嬉しいことでもある。成果をあげられなければ、男として育てられた意味がない。全ては神官になるためにあるのだ。
魔導士が突然空に向かってに顔を上げた。
「アレク、あれを見ろ、魔物じゃないか?」
「怪鳥のようだが、ムーミスト様のお力であれ以上近づけまい」
「だが、仕事だから追い払わねばいけないな」
空を旋回する体長2メティート(2.4メートル)の怪鳥に向かって、魔導士は手に溜めた光の弾を投げつけた。
光の弾は風よりも早く飛び、怪鳥の身体を掠めた。
「外したか」
魔導士はそう呟いたが、怪鳥は羽をやられたらしく、上下によろめきながら逃げるようにして飛んでいく。
翼から紅い血を線のように垂れ流し、怪鳥はメミスに都を離れる。広がる農地を越えて、山を越えて、ムーミストの領地を離れる。
怪鳥の目に映る広大な森。
人里離れた森は瘴気を放ち、人間は決して近づけず、普通の魔物もここで暮らすことはできまい。ここで暮らせる魔物は魔物の王と呼ばれる者と、その配下の者たちくらいだ。
怪鳥は深い森に向かって降下し、森が開けた巨大な湖の辺に降り立った。
静かだった湖の水面が揺れる。
水の底から巨大な泡が上がり、水面で激しく弾け飛ぶ。そして、湖の底から禍々しい低い声が響いてくる。
「メミスのようすはどうだった?」
声は大地を震わせ、森を揺らし、この森に棲む者たちを震え上がらせた。
怪鳥は身体を震わせながらも、湖の主に向かって鳴いて状況を説明した。
水面が激しく波打った。
「ほう、メミスの魔導士に手負いを負わせて逃げ帰ったと申すか!」
怪鳥は心の底から震え上がり、その場に失神した。
湖の底から巨大な泡が幾つも上がり、水面を爆発させた。
飛び散る水飛沫の向こうに巨大な影が見える。その影はおそらく9メティート(約10.8メートル)だが、全身が出ているわけではなさそうだ。長く伸びた身体の大部分は湖の中に浸かったままだ。
巨大な影は失神した怪鳥をひと呑みにして、再び湖の底へと帰っていった。
静まり返った湖に男の声が響く。
「貴様が怒りを覚えるたびに喰われる家臣が可哀想だ」
厚いローブに付いたフードをすっぽりと頭に被り、湖の辺に立つ人物。今のは、この者の声だ
湖の底から激昂した声が響き、世界を振るわせる。
「今日は何用だ、ソーサイアの遣いの者よ。今の我は機嫌が悪い、抜かしたことを言いおると、お主とて喰ろうて腹に納めてくれるわ」
「やれるものならやってみるがいいレザービトゥルド。だが、私とて抵抗はさせてもらう」
湖の主レザービトゥルドは一転して静かな口調になった。
「……用件を言え」
「メミスの巫女がラーザァーの召集をかけた」
「それならば我も今聞いたぞ」
「ザルハルト山の封印は明日解かれ、その際に神官長が都の外に出る。神官長を殺すならば、よい機だと思わぬか?」
作品名:英雄の証 作家名:秋月あきら(秋月瑛)