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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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ファースト・ノート 7

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 黒縁眼鏡をかけたエンジニアに何やら話しかけると、今度はギターの音が鳴りだした。控えめだけれど力強いベースラインがしっかりとギターを支えている。

「これ……もしかして修くんの音……?」
「そう。たった一回のレコーディングだったけど、『臨界点』の他にも『闇夜のランプ』と『思い出糸まき』は録音が残ってたんだ。これにピアノを加えて曲を完成させたい。昨日作ってくれたアレンジも晃太郎に聞かせたいし、今日中には終わらないかな。はっちゃんは明日から仕事だっけ。じゃあ終わってからでも……」

 呆然とする間、要はしゃべり続けた。ドラムを叩き終えた晃太郎が額から汗を流しながら初音を見ていた。スティックをスネアドラムの上に置いたあと、一瞬、微笑んだ気がした。機材を操作するエンジニアの眼鏡の奥にある瞳も笑っているようだった。

「さあやろう。中に入って」

 要は戸惑う初音をブースの中に押しこんで、グランドピアノの前に座らせた。黒光りするピアノの上にヘッドフォンが乗っている。

 要は「さあ、何からやろうかなあ」と歌うように言った。首からヘッドフォンを下げた晃太郎がこちらを見ている。もう笑ってはいなかった。

 要は『臨界点』の譜面を並べると、ギターを肩からかけて床に落ちているシールドを拾い上げた。十二畳ほどのブース内にギターの音が響き渡る。いくつかコードを鳴らすと、晃太郎もバスドラムを踏みながら、シンバルやタムを叩きはじめた。

 置き所のない気持ちを払い落とすために、初音は頭をふった。ガラス窓のむこうにいるエンジニアがこちらの様子をうかがっている。

 両手で自分の顔を覆って力を込めてから、息を吸い込んだ。チューニングを終えた要が待っていた。晃太郎もバスドラムのペダルに足をかけてスティックを握っている。初音は二人にうなずきかけた。要がエンジニアにむかって手をあげる。

 晃太郎のカウントとフィルインで曲が始まった。

 一拍目からギターとベースの音が入ってくる。初音はイントロのメロディラインを弾く。

 あの夜、未完成に終わった『臨界点』に命がふきこまれる。ひとつずつ丁寧に刻まれるリズム、温かみのあるベースライン、自由自在に蠢くギター、ブース内の音をすべて包み込む歌。そこへピアノの音色を混ぜて響きわたる共鳴。

 三角形に並ぶ初音と要と晃太郎の真ん中に、ベースを抱える修介の姿が見える。もう肉体は灰となってしまったのに、確かにそこにいて、微笑みながらベースを弾いていた。

 その後、晃太郎の要望もあって何度か録音を重ねた。譜面を確認しながら、細かいフレーズやフィルインのタイミングを合わせる。要と二人だと演奏するたびに曲の雰囲気が変わったものだったが、晃太郎の指示で各々のパートを綿密にすり合わせていくと、欠けていた箇所が埋まり、曲は力強さを増していった。

 晃太郎は巧みに強弱をつけていく。意図的に音の空白を作っては四人でぴたりと合うリズムを作る。演奏中にタイミングが合うたび、生きている修介がすぐ隣にいてベースを弾いていると錯覚するほど、何ともいえない快感が背筋をかけぬけていった。

 ブース内は空調が効いているものの、機材から発する熱気が充満していた。黒いTシャツを着ている要の背中は汗に濡れて色が変わっている。晃太郎も紺のリストバンドでこめかみから滴り落ちる汗をぬぐっていた。

 『臨界点』の最終テイクを撮り終わったところで、一旦ブースの外に出た。

  晃太郎とロビーに出て自販機に硬貨を投入した。初音はアイスティーを、晃太郎はスポーツドリンクのペットボトルを取り出す。要はまだコントロール・ルームにいる。あとからきた事務所のプロデューサーたちとなにやら話をしている。

 初音がソファに腰を下ろすと、晃太郎はその隣に身を投げ出した。

「ひさしぶりに鳥肌ものだったな」

 そう言って晃太郎はスポーツドリンクに口をつける。

「ピアノであれだけ気持ちいいんだ。おまえとやったら簡単にイキそうだな」
「へんな言い方しないでよ」

 そう返すと、晃太郎は肩からかけたタオルで額をふいて言った。

「俺はマジなんだけどね。絶対にロスに連れて行くつもりだから」

 初音はペットボトルのふたをきつくしめて晃太郎を見た。
 数年先のヴィジョンなど見えていないし、明日から始まる出勤とレコーディングにどう折り合いをつけるかも決まっていない。ただ今は、要が望むように修介の音が入った曲を最高の形で仕上げたいという気持ちでいっぱいだった。

 彼が視線をそらさないので、震えそうになる手を握って言った。

「要と修くんが一緒なら行く」

 晃太郎が拍子抜けしたように、覇気のない声で言った。

「じゃあ修を黄泉の国からひっぱってこい」
「そんなことできるわけないじゃない。深町がやってよ」

 晃太郎の体を肘で押すと、腕で押しかえしてきた。

「だったらイタコでも連れてきてロスに呼び出してもらえ。おまえの旅費は出すが、要は実費だからな」

 吐き出すようにそう言って初音の顎をつかんだ。
 初音は、頬に涙が伝うのを感じた。

「修くんが生きてるあいだに参加すればよかった……」

 喉の奥から嗚咽が漏れだしてくる。晃太郎の力が緩んで顎が下がった。下をむくと、涙があふれだして止まらなくなった。

 大きな手が髪をなでる。嗚咽を飲みこもうとすればするほど、肩の震えが止まらなくなってしまう。背中を丸めて前かがみになり、あふれてくる涙をこらえようとした。
 両手で顔を覆っていると、晃太郎が背中をさすった。

「今作ってるミニアルバムの曲が流通にのれば、日本中で修の音が流れることになる。そのためにバックバンドの俺たちが尽くせることはまだあるはずだ」

 晃太郎は火のついていない煙草をくわえたまま正面を見つめていた。

 コントロール・ルームにいる要が頭をかきむしっている。みな神妙な面持ちで何か話し合っている。会話の内容は聞こえないが、要は珍しく声を荒げているようだった。

 そこへ事務所の男性がかけこんできた。要と同じ年頃の青年は、プレイヤーのスタジオ入りやライブ等のスケジュール管理をしているらしく、高村家で何度か会ったことがある。

 彼はコントロール・ルームに入るやいなや、要にしがみついて言った。

「契約の話……本当に流れたみたいです」

 その場にいた一同がどよめく中、最初に声を上げたのは黒縁眼鏡のエンジニアだった。

「ミニアルバム用に四曲作ってこいって言ってたのは向こうじゃないですか」

 プロデューサーである三十代後半の男性は腕を組んだまま唸り声をあげている。
 要は呆然と立ち尽くしていた。彼に聞かされた話では、作成中の一曲を現在契約しているインディーズレーベルからリリースし、その後リミックスしたシングル曲に残り三曲を加えてミニアルバムを作り、メジャーレーベルから発売する予定だったそうだ。

 青年は唾を飲みこむと、呼吸を整えて言った。

「デビューするなら高村要の他に、ベースの館山修介とドラムの深町晃太郎もセットだって言い出して……三人そろわないなら契約できないみたいな話になったんです……」