ファースト・ノート 7
徹治は瞬きもせず話を聞いている。
初音は息を吐き出して両手で顔をおおった。指先が小刻みに揺れる。
「でも結局は言い訳なんだって気づいたわ。お母さんを裏切るのが怖くて、慣れた日常から飛び出していけなくて……人はいつ死んだっておかしくないのに」
不意に涙がこぼれ落ちた。通夜のとき、修介の親族の隣でこらえていた涙が、体の奥から次々と溢れ出してくる。
「要の仲間がひとり死んだそうだな……」
「あんな悲しいお通夜は初めてだった。誰もが突然の別れを受け入れられなくて混乱してた。明日死ぬのは自分かもしれない、隣にいる大切な人たちかもしれないって、思わずにはいられなかった」
徹治が涙で濡れた初音の手をとった。骨の感触が伝わってくる。
「一寸先は闇ばかりだ。待っているのは成功か挫折か、生か死か……しかし目の前に道が開いているならば、それはおまえさんが紡いできた命の証だ。年とともに背負っている荷物が重くなって前に進めなくなることもあるだろう。本当に大切なものは何なのか、目指していたところはどこなのか、修介という青年が問うているのではないかね」
徹治は手の力を緩めた。初音は震えている自分の両手を見た。
アレンジを頼まれたあの夜、記憶の奥に分け入ってくる要の曲を聴いているうちに、ピアノのフレーズが湧きだしてきて自分を抑えることができなかった。夜の闇に果てしなくのびていく要の歌声、不安定な音色を支える修介のベースライン、初音をまっすぐに見つめる湊人のまなざし。複雑に混ざりあった音と感情が昇華されて肉体を満たしていく。体という入れ物をこえて響きあうものが確かにあった。
あの場にいなかった晃太郎の音が入れば、もっと心を揺らすような――
涙が頬を伝う。修介の声が聞こえる――初音さん、もっとやりましょうよ。俺、もっともっと弾きたいんです。
魂になってもきっと修介は要たちと一緒に演奏したがっているだろう。ベースを弾くその肉体がなくなってしまっても――
初音は涙をぬぐって言った。
「おじさん、ありがとう。それから……ずっとお母さんのことを聞きたかったんだけど、おじさんはお母さんのこと……」
徹治は目を閉じていた。手はベッドの上に力なく横たわり、口は半開きになったままだった。口の前に手をかざしてから脈をみた。弱々しいが生命活動は維持できていた。
棚の上にある海苔の佃煮の瓶が目に入った。まだ封は空けていないようだった。
初音は深く息を吐いて立ち上がった。
病室の扉のすぐ外側に要が立っていた。首元のよれた白いTシャツにひざが破れて色落ちしたジーンズをはいている。
「……いつからそこにいたの?」
「海苔の佃煮の男のあたりから」
力なく言って笑った。目元に大きな隈ができている。「うまいのかな、それ」と言うので「私も食べてみたい」と返して笑うと、要は強い力で初音の肩を引いた。
「はっちゃんの夢、初めて聞いたなあ」
「私も……ここ数年は夢のことなんかすっかり忘れてた」
熱をもった体から鼓動が伝わってくる。背中に回った太い腕に力が入った。
「ちょっと待ってて。渡したいものがあるから」
初音はそう言うと体を離して、病室に戻った。
二人で談話室の長椅子に腰をかけた。
要はベースのソフトケースを股のあいだに下ろしてファスナーを開ける。
白と赤のボディを持つフェンダーのプレシジョンベースが姿を現す。鈍い光沢を放つボディには無数の傷が残っている。
要はベースを構えて弦をはじいた。かなりピッチが狂っていた。
「これ、俺がデビューしたころに、修が使ってたベースなんだ」
初音は相槌を打つと、ペグをひねって調律を始めた。一本ずつ丁寧に弦を弾き比べる。
要は足を組んでベースを構えなおし、何かのベースラインを弾き始めた。
しばらく聞いてから、要の『臨界点』という曲だとわかった。
弾き終わらないうちに要は手を止めた。弦をはじく右手の薬指がかすかに震えている。
初音がのぞきこむと、苦笑いをして右手の中に指を握りこんだ。椅子にベースを置いてため息をつく。
「夜通し弾くのはまずいよなーって……思うんだけどさ」
初音は要の手をとると、握り拳を広げて指をさすった。
「眠れないの?」
「うん……修が早く曲を作ってくれーってうるさいから……」
要は背中を丸めて前にかがみこんだ。
あわただしく廊下を行き来する看護師たちの器具の音に混じって、壁にかけられた簡素な時計の音が響いている。修介とすごした最後の夜も無数の時計たちがリズムを刻んでいた。要のギターと歌声、修介のベース、初音のピアノ、足りない晃太郎の音を補うように時計たちはぜんまいを動かしていた。
あの場に晃太郎がいれば、翌日のレコーディングに初音が参加していれば、修介は完成した楽曲を聞けたかもしれない。けれど今はもう修介がいない。
どうしても要の曲を完成させたい。彼の分身でもある楽曲たちに、まばゆい魂のきらめきを吹きこんでみたいと思った。初音の夢は、その先に続いている気がした。
要の手を握って言った。
「早く曲を完成させよう。私も協力する。要が望むならライブにもでるわ。修くんが待ち望んでいた新曲を、私も聞きたいの。そのあとなら、心おきなくアメリカへ行けるから」
初音の肩にもたれ、まどろみかけていた要が体を起こした。
まっすぐに要を見つめた。自分の意志で前に向かって歩いていきたい――そう心に決めて微笑みかけた。
小窓から光がさしこんだかと思うと、要は両腕で初音の体を抱きよせた。
「ロスに行くのは困るよ……俺の夢は……まだその先にあるから」
腕にさらに力がこめられる。額に無精ひげが当たる。
頭がずしりと肩にのしかかった。要の腕の力が抜ける。
顔をのぞきこむと、彼は眠りに落ちていた。体をゆすっても起きようとしない。
心地よいけれど息苦しくもある重みが、初音の体を覆っていた。
***
翌日、要とともにレコーディングスタジオにむかった。空はよく晴れていた。皮膚にまとわりつく湿気もなく、からりと乾いた風が髪をなびかせる。要の車を下りてスタジオに向かう途中、強い日差しがノースリーブからのびる初音の素肌を焦がした。
ビルの二階にあるスタジオに入ると、すでに複数のスタッフが待機していた。
要は笑顔であいさつを交わし、初音を紹介して回った。
コントロール・ルームの中に入ると、ドラムとベースの音が大音量で迫ってきた。巨大なミキシング・コンソールの前にエンジニアらしき男性が座っている。ガラス越しに淡いグレーのカットソーを着た晃太郎の姿が見える。ヘッドフォンをつけて黙々とドラムを叩いている。視線が少し上がったが手をとめない。
聞こえてくる音に違和感をおぼえる。ブースの中にいるのは晃太郎ひとりなのに、ぴったりと寄り添うようにベースラインが聞こえてくる。
ギターケースを持ったまま歌詞を口ずさんでいた要が、左頬にえくぼを作って笑った。
作品名:ファースト・ノート 7 作家名:わたなべめぐみ