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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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ファースト・ノート 7

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「まあな。俺でもそれくらいの良識はある。でも妊娠してるって知らされるまで何カ月もあったし、あいつも気づくまでのあいだに酒やら風邪薬やら飲んだせいかもって自分を責めてたな。葬儀のあとも両親と散々もめて実家に連れ戻された。そのあと離婚届が送られてきてそれっきりさ」

 勢いよく煙を吐き出すと、携帯灰皿の中に吸い殻をおさめた。
 晃太郎は左の手のひらをじっと見つめて言った。

「なんで失くしたくないものばっかり、指のすきまからボロボロこぼれていくんだろうな。俺の手がもう少し大きければ、子供の手も修の魂も、つかんで離さずにいられたのに」

 晃太郎の手を取った。驚くほど冷たい手のひらの下に、無数の傷跡がある。こんなに傷ついてなお、どうして彼の大切な人は次々と去っていくのだろう、と初音は思った。

 大きな手をそっと丸めて胸のあたりに持っていった。

「あなたの大切なものは、きっとここにも残ってる。赤ちゃんを抱いた温もりや、修くんの笑顔と一緒に。きっと別れた奥さんの心も……」

 湿り気の残った風が晃太郎の頬をなでる。木立がざわめいて、冷たいしずくが初音の顔にあたる。
 晃太郎は初音の手を握りかえして言った。

「あいつの心は、もうここにはないよ」

 初音の手の甲にそっと口づけると、「明後日は必ずスタジオにこい」と言って去っていった。

 小さくなっていく背中を見送ったあと、空を仰ぎ見た。とめどなく流れていく銀色の雲のどこかに修介の魂があって、自分たちを見下ろしているのだろうか。
 みんなここで待ってるから戻っておいでよ――そう祈るような気持ちで目を閉じた。

                 ***

 通夜の翌朝、お盆休暇の三日目を迎えた初音は、高村家に徹治の衣服を取りに行った。

 要も湊人もいなかった。要がベッドがわりにしているソファのまわりにしわくちゃになった譜面が散乱している。ギターは床の上に置かれたままだ。

 酒と煙草のにおいが充満している。キッチンの小窓を開けた。シンクに置かれたカレー鍋が水に浸かったままだ。修介を見送った夜の余韻が、薄暗い室内にまだ漂っていた。
 物音がしてふりかえると、芽衣菜が扉を開けて入ってくるところだった。

「ここに来たら修に会えるような気がしちゃってさ」

 眉をよせて苦笑いしながら言ったので、初音も「私も」と微笑みかえした。

「これ、要に渡しといてくれない? うちに置きっぱなしだったんだけど、ベースを弾けない私が持ってても仕方ないからさ」

 そう言って背負っていたベースのソフトケースを初音にさし出した。ファスナーの開閉部分にキーホルダーがぶらさがっている。修介が好きだったロックバンドのギターピックをモチーフにしたものだ。

「芽衣菜はこれからどうするの……?」

 受け取りながら初音は言った。主を失ったベースは、以前よりも重く感じられた。

「どうって、私にはこれしかないからね」

 芽衣菜はボンゴを叩く真似をした。きっちり結い上げたポニーテールが揺れている。

「要がまたバックバンドに参加してって言うなら喜んでやるけど、まだそんな話もないし。ま、でも要もそれどころじゃないよね。お父さん、入院したって聞いたからさ」
「また一緒にやろうよ」
「一緒にって、やっとバックバンドに入る気になったの?」

 初音は、あっと口を塞いだ。芽衣菜は歯を見せて笑った。

「だったら早く要に言ってやりなよ。あいつ、きっともう初音のピアノがないと生きていけないからさ」

 初音は心臓がぎゅっと縮むのを感じた。ここ数日見ていない要の笑顔と、軽快なギターのストローク音が頭の中をかすめていく。

「じゃあね。あいつのこと、支えてやって」

 芽衣菜はさっと手を上げるとリビングから出て行った。
 修介を失ったばかりなのに、芽衣菜の立ち姿は凛としていて、脳裏に焼きついて離れなかった。彼女の心の支えは一体どこにあるのだろうと初音は考えた。

 足元に生ぬるい風が吹きこんで、散乱していた譜面をふわりと浮かばせた。



 病室に入ると、徹治は眠っていた。立ちよった看護師が、昨夜から熱が出ていると言った。再入院してから二週間がたつが、抗がん剤の影響なのか髪は瞬く間に薄くなった。頬は削げ落ち、顎にまばらに生える髭も細くなってきている。垢かと思うほどよく焼けていた皮膚も少しずつ色を失っているようだった。

 持ってきた衣類をロッカーの中にしまうと、パイプ椅子に腰かけた。カーテンの向こうでは真夏の太陽がきらめき、街中を覆うアスファルトを焦がしている。

「やあ……初音ちゃん、いらっしゃい」

 徹治が薄い目を開けて言った。

「要ならまだ帰っとらん……どこをほっつき歩いているのか……」

 熱に浮かされて家にいる夢でも見ているのだろうか。瞳の焦点があっていない。上瞼から伸びる少ないまつげがかすかに震えている。

「あいつのくせ毛はますます早苗に似てきたな……」

 つぶやくように言うとまた瞳を閉じた。

 湊人が持っていた写真のことが頭をよぎる。要を抱いていた女性はストレートヘアをショートカットにしていた。彼女は要の母、早苗ではない。そのことは写真を一目見た時からわかっていた。

 初音は腰のあたりまで下がっていた掛け布団を引き上げて、徹治の胸元にかけた。

「君はこれからどこに向かうのかね……」

 眠りに落ちたと思った徹治が唐突に言った。返答できずにいると、体を横に向けて咳をし始めた。初音は入院服の上から背中をさすった。

「要と共に東京に行くのか、海苔の佃煮の男とロサンジェルスへ行くのか、どこへも行かずここに残るのか……」
「……深町がここにきたの?」
「ああそうだ、深町……病院の飯はまずいだろうと言って海苔の佃煮をおいていきおった。子供の頃、地元でよく食べたとか言っておったなあ。おもしろい男だ」

 徹治の話はとりとめがなく先が見えない。どうやらここに海苔の佃煮を持って見舞いに来た晃太郎が、初音を連れてロスへ行く話をしたらしい。

 また咳こんだ。胸をえぐるような強い咳が続く。手がテーブルのあたりを彷徨ったので、ティッシュ箱と吸い飲みの両方を見せた。徹治は吸い飲みをとって水を飲んだ。

 若い頃は海外生活が長かったという徹治が結婚し、家庭を持とうとしたきっかけは何だったのだろう。要が生まれて今の家に引っ越して、妻を失い、それからの長い年月をどんな気持ちで過ごしてきたのだろう――

 徹治の半生に対する疑問と、写真の女性の顔が、交互に浮かんでは消える。

 彼は仰向けになった。先ほどとは違って瞳の中にしっかりとした意識が見えた。
 初音は深く息を吐いた。

「私の夢の話、聞いてくれる?」

 徹治はうなずいた。

「お母さんにジャズは弾くなって言われてからも、アメリカに留学する夢はずっと消えなかった。むこうで湯水を浴びるようにライブを聴いて、いつかはお父さんみたいに弾けたらなんて考えてたの。それで外国語大学に進学して英語の勉強を始めたんだけど、留学するに物凄くお金がかかることを知って……大学も奨学金で通ってたから、それ以上の借金を負うのが怖くなってあきらめちゃった」