ファースト・ノート 6
前歯を出した修介が横からこっそりと言った。要は小声で返した。
「聞きたくないのか、今のピアノ。鳥肌ものだぞ」
修介が目玉が飛び出しそうなほど目を見開いた。前歯もますます飛び出している。あまりの形相に体をひくと、修介はベースを抱え、初音にむかって勢いよく頭を下げた。
「コード進行よろしくお願いします。俺も弾きたいです!」
そしてヘッドフォン下さい、と言わんばかりに手を突き出したので、払いのけた。
「あっ要さんずるい! 俺だって初音さんのピアノを聞きながら弾きたいのに!」
「修さん、楽器があるからってずるいよ。オレにも聞かせてよ!」
兄弟げんかのような言い争い始まると、初音はくすくすと笑いだした。
要と修介はそろってもう一度頭を下げた。
「どうかお願いします」
初音は困ったように眉を下げて、鉛筆を握った。
要と修が万歳をしている横で、次々と美しいアルファベットを記入する。
修介はコード進行を見ながら唸り声を上げ、要に目線を送った。
「せっかくだしヘッドフォンをはずして三人でやりませんか。アンプもボリュームしぼって、要さんも小さーい声で。ね、ね?」
「うちのまわりは田んぼと畑だし……まあ大丈夫だと思うけど」
そう言うと、修介は小さくガッツポーズをとった。
初音から譜面を受け取ると、修介と肩をよせあって座り、譜面を睨みながらコード進行を確認した。簡素だがピアノのフレーズも書きこまれている。
湊人もガラステーブルをピアノに見立てて、指を動かし始めた。
要のカウントで演奏が始まった。初音の魔法は先日のストリートライブよりもずっと迫力を増していた。今まで遠慮がちだったブルーノートの挿入や間奏でみせるジャズの4ビートらしいフレーズも、しっかりと彼女の姿を形作り、夜空にひしめきあう星座のようにきらめいていた。
初音のピアノと修のベースラインに乗ってどこまでも声がのびてゆく。
薄暗くなったリビングでひとり冷たくなった弁当を食べていた頃の、満たされない想いがよみがえる。今同じ場所で、仲間が集まり、要が目指す場所に向かってかけ登っていく――潤んだ眼から思わず涙が零れ落ちそうになり、とっさに目じりをこすった。
修介は深く息を吐き出しながら、要と初音を交互に見た。
「新生高村要、ここにありだなあ……」
「修さん、すごく変な顔してるよ」
湊人が茶化すと、「俺の感動をぶち壊すなー」と言って湊人をこづいた。
要と初音は目をあわせて笑った。しばらく余韻に浸っていたかった。何度つかまえても逃げさってしまう初音だけが生み出せる音色。
本当は誰にも聞かせずに、全部自分の中に閉じこめてしまいたかった。
***
翌日も修介はやってきた。両手いっぱいにスーパーの袋を抱え、なだれこむようにリビングに入ってきた。朝からずっと冷房の効いた室内にいたので、部屋に流れこむ夕暮れ時の生暖かい風が筋肉を緩ませてくれた。
ギターを置いて腕を回しながら立ち上がる。
午前二時頃に初音を家まで送ったあと、明け方まで修介と曲を作り続けた。二時間ほどしか寝ていないが、眠気はあまりなく頭はさえていた。
修介は早朝からコンビニのバイトにいったはずなのに、疲れを全く感じさせない動きでキッチンに入っていった。
「昨日のおわびに今夜は俺がカレーを作りますよー」
「おわびって何の?」
要がじゃがいもを手に取っていると、背負っていたベースのソフトケースを下ろしながら言った。
「逢引のおじゃまをしてしまった件です」
「余計なお世話だ」
カレールーの箱で修介の頭を軽く叩いた。
修介は笑いながら頭をさすって玉ねぎや人参、牛肉などの具材を次々と袋から取り出した。「みんなで一緒に食べましょうねー」と言ってから鼻歌を歌う。
それは今朝ようやく完成した曲だった。明日、スタジオに入って全てのパートを仕上げる予定になっている。理想は初音のピアノを加えることだが、彼女の了承が得られない限り、代役を頼むかシーケンサーに打ち込むことになるだろう。
初音のピアノと晃太郎のドラムが一緒に鳴っているところを想像すると背筋が震えた。
「晃太郎がロスに行くって話、聞いたことあるか?」
玉ねぎの皮をむきながら言うと、修介は手を止めた。
「いやー具体的には……でも、いつもなら三つ四つバンドをかけもちしてる晃太郎さんが、今は要さんのバックバンドしかやってないって話は耳にしました。それにしては忙しそうだし、電話で英語を話してる姿も見たことあります。いずれうちのドラムも入れ替わるだろうし……あ、そのことが気になったとか?」
昨日聞いた初音の言葉が、ずっと耳の奥にこびりついている。
修介がじゃがいもの皮と悪戦苦闘しているのを眺めながら言った。
「いや、なんか……はっちゃんも連れて行こうとしてるみたいで」
思いかけず自分の言葉が未練たらしく響いた。自分が東京に行ったとしても初音はこの地で変わらず生活していると勝手に思い込んでいたことに気づく。
修介は不細工なかたちのじゃがいもを要に突きつけて言った。
「さっさと抱いて自分のものにしちゃえばいいでしょ」
「そんなことできるわけないだろ」
「他の女性はホイホイ抱くくせに」
「うるさい。彼女は母親と二人暮らしだろ。俺がふりまわしていいわけない」
ため息をつきながらうつむくと、修介は玉ねぎに手を伸ばしてきた。
「ちゃんとお付き合いして結婚すればいいじゃないですか。俺は彼女とはそのつもりですけどね。バツイチで子供もいるけど、みんなひっくるめて大切にしたいです」
ウサギによく似た小さな丸い目で、まばたきもせずに言った。
二十二になったばかりの修介が、将来を具体的に考えていることを初めて知った。
「俺に家族なんてできるのかな……」
「要さんに子供は産めませんけどねー」
修介は大げさに吹き出して笑い始めた。
首に腕を回してげんこつをすると、「要さんサイテー」と言ってますます笑った。
小窓からさしこむ西日を浴びて修介の笑顔が夕焼け色に染まる。体から伝わる振動が心を揺さぶり、笑いがこみ上げてきた。
「おまえら、何やってんの?」
ふりかえると、真後ろに晃太郎が立っていた。木枠でできたガラス扉に体をもたせかけている。修介は味噌の入ったタッパーを見せながら言った。
「おふくろの味のカレーです。決め手は手作り味噌!」
晃太郎は「ふーん」と気のない返事をした。修介を押しのけてキッチンに入ってくる。
三畳しかない板間のキッチンに男が三人も立っているとかなり圧迫感がある。狭いスタジオにこもって音と顔を突き合わせているときに似た、心地よい息苦しさだった。
***
翌日は予定通り朝からスタジオにこもり、シーケンサーに入れたピアノパターンを鳴らしながら、ギター、ベース、ドラムの音を加えていった。不安定だった要のリズムに晃太郎のドラムががっちりと土台を作る。
作品名:ファースト・ノート 6 作家名:わたなべめぐみ