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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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ファースト・ノート 6

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 手の力をといて初音の体に覆いかぶさった。彼女の髪の甘いにおいが全身を包んでいく。首元から立ち上る体臭が鼻先をくすぐる。

 以前、酒に酔って「再婚」の話を聞いたときと違い、晃太郎の目は本気だった。プライベートに関する都合の悪い話をはぐらかすことはあっても、嘘をついたことのないあの男が、現実に初音を連れ去ろうと算段しているらしかった。

「どうするつもりなんだ?」

 耳元で囁くと彼女の体が反応した。

「どうって……まだ具体的には決めてないけど……」
「ロスに行くのは困るよ」
「……どういう意味?」

 抑える力が抜けていたのか、初音は体を押しのけて起き上がった。

 晃太郎から話を聞いたとき、初音を人生のパートナーとして連れて行こうとしているに違いないと感じた。ピアノを弾ける女なんて世の中には掃いて捨てるほどいるのに、なぜ初音にこだわるのかという疑問が湧いた。

 同時に、連れて行かれるのは困ると思った。素直にそう言ったら、晃太郎は喉を鳴らして笑っていた。

 けれど自分の中で、一体何が困るというのか、答えが出なかった。

「ついていくってことは晃太郎の女になることだってわかってるのか?」
「わかってるに決まってるでしょ」
「だいたい仕事だって辞めなきゃいけないし、湊人のことだって……」

 口先だけで言葉をつないでいると、初音の手が思いきり要の頬を叩いた。

「あなただって好き勝手に生きてるくせに、こんなときだけ口出さないでよ!」

 初音の両目が見る間ににじんでいく。
 零れそうになっている涙の粒に、中途半端な自分の姿が映っている。

 玄関の扉が音を立てた。「ちわーっす」と修介の声が聞こえた。
 勢いよくリビングの扉が開いたかと思うと、ロックTシャツを着た修介と制服姿の湊人が姿を見せた。
 修介は一歩あとずさると、前歯を見せて苦笑いをした。

「あのー……おじゃましちゃいましたか?」
「今日は来るって聞いてないけど」

 要が苦々しくそう言うと、うしろにいた湊人が修介の肩を引っつかんだ。

「こういうときはさっさと退散するの!」

 湊人が耳打ちすると、修は「おじゃましました~」と言いながら廊下に消えていった。
 初音はあわてて顔をぬぐい、要の体を押しのけて彼らのあとを追った。

「別に何でもないのよ。せっかく来てくれたんだし、コーヒー淹れるからリビングに入って! ね?」

 声は多少かれていたものの、いつもの明るさを取り戻していた。階段の中ほどにいた二人は顔をあわせ、要のごきげんを伺いながら階段を下りてきた。

 コーヒーを飲みながら四人でガラステーブルを囲んだ。友人の家から帰宅する湊人と、アルバイト終わりの修介が駅ではちあわせ、一緒に高村家まで来たとのことだった。
 修介はコーヒーをすすりあげて言った。

「あー落ち着くー。俺も湊人くんと一緒にここに住みたいなあ」
「何言ってるんだよ。家族が待ってるくせに」
「俺んち兄弟多いでしょ。ベースを弾いたらうるさいって姉貴にこづかれるし、ちびたちが楽譜を破ったりするし、練習どころじゃないっすよ。たまに早く帰ったと思ったら、定職につけって母さんはうるさいし、ここの方がよっぽどいいですよー」

 そう言ってガラステーブルにしがみついた。五人兄弟の二番目で頼りない長男には、それなりの苦労があるらしい。

「付き合ってる彼女のところで寝泊りすればいいだろ」
「だめだめ! 頭の中でベースラインを考えてるだけで、あたしのこと無視してるの? とかって怒られるんですからー」

 泣きまねをしながら今度は要にしがみついてきた。「ぜいたくなやつだなあ」とつぶやくと、初音と湊人は声をあげて笑った。

 修介に促されて作成途中の譜面を取り出した。小さな音でギターの弦を鳴らすと、初音はコーヒーカップを片づけ始めた。湊人はシャワーを浴びると言って廊下に出た。

 メジャーデビューへの足掛かりとなるミニアルバム用の曲の下地はできている。しかしどうベースラインを紡いでもコード進行に不自然な部分があって、曲が広がりを見せない。
 頭をつきあわせてもめていると、初音が手をふきながら近づいてきた。

「ここよ。コードが一つ足りないの」

 白く細長い指が譜面の一点を差した。修介が首をかしげる。要が「こっちも違和感あるんだけど」と言うと、次々と音のほころびを見つけ出して指摘し始めた。
 要は譜面を凝視してお手上げのポーズをとった。

「わっかんないなあ。はっちゃん、弾いて見せてよ」

 初音は指をひっこめた。腕を組んで、ふいと顔をそむける。

「自分で考えてよ。それに私、ギターは弾けませんから」
「あるある! キーボードありますよー」

 修介は部屋の隅に立てかけてあるローランド社のキーボードを指差した。
風呂場から戻った湊人に指示をして二人がかりで初音の目の前にセッティングし、どこからかヘッドフォンもふたつ揃えてきた。

「よろしくお願いします!」

 ヘッドフォンと譜面を差し出した修介にあわせて、要も頭を下げた。久しぶりに初音の魔法が始まるかと思うと、心臓が高鳴った。

「……この曲だけだからね」

 しぶしぶヘッドフォンを受け取ると、床に置かれたキーボードの前に正座をした。
 要は急いでもうひとつのヘッドフォンを頭に取りつけ、彼女の音を待った。

 コードのみのイントロから、即興のピアノラインが奏でられる。指摘した部分のコードチェンジの他にも、あちこちに新しいコードが追加され、楽曲が大きくふくらんでいく。

 初音の指になじんだジャズのブルーノートやフラットマイナーセブンスが無色だった楽曲に彩りを加え、不思議と懐かしい風景が見えてくる。子供たちが帰ったあとの茜色に染まる公園や、民家を通り過ぎる時に鼻をかすめる夕食のにおい、窓から漏れ出す家族団らんの笑い声が、胸をしめ上げるようだった。

 要は二番から小声で歌い始めた。歌詞とメロディが入ると、初音は様子をうかがいながらまた新たな伴奏を弾いてみせた。最後のサビにかかる頃にはヘッドフォンをしていることも忘れ、要は体の神経すべてを使って声を出していた。
 即興のエンドロールを聞き終えてからヘッドフォンをはずす。高揚した気持ちは静まらず、全身に血液が勢いよく駆けめぐる。指の先が熱を帯びてしびれている。

 ななめ向かいに座った修介と湊人が、目を丸くして要を見つめていた。

「要さん……今、ものっすごくいい声が出てましたよ……」
「初音さんのピアノ、オレも聞きたい!」

 髪の濡れた湊人がヘッドフォンを取ろうとする。
 要は我に返って奪い返し、初音に鉛筆をさし出した。

「コードを書き起こして、もう一回やってくれないかな」
「今回はもうかかわらないつもりで……」

 初音はためらっていたが、身を乗り出して手をひき、鉛筆を握らせた。

「頼むよ。ギターを弾きながら、今の感じでもう一度歌いたいんだ」

 大きな声を出してつめよった。初音はたじろいだが、イエスというまで引くつもりはなかった。

「さっきみたいなデカい声はまずくないですか。いえ、とても素晴らしいんですが」