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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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ファースト・ノート 6

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「午前中なら家にいるかなっと思ってきちゃった。これ、お昼に一緒に食べよう。シャワーでも浴びてきたら?」

 両耳についたしずく型のピアスが光を拡散させる。
 芽衣菜はドーナツの箱をガラステーブルの上に置くと、湊人の校章と生徒手帳を拾った。

「坂井湊人って誰?」
「はっちゃんの弟なんだ。訳ありで、今はうちから高校に……」
「初音に弟なんていたの? 父親の姓でもないってことは、異母兄弟か」

 芽衣菜は話を遮るように言った。生徒手帳にはられた写真を見てから要に突き出した。

「ふうん。ずいぶんご執心なんだ。他人に関心のない要が、弟の面倒まで見るなんて」
「違う。自分の子供の頃と境遇が似てて、ほっとけなかっただけだ」

 あわててそう言ったが、返答はなかった。そろっと顔を上げると芽衣菜の視線が突き刺さった。彼女の心がどこに向いているのか、全く見当がつかなかった。

「はっちゃんなんて呼び方してたら、他の男に寝取られるわよ。深町さんとか」
「そんなの晃太郎の勝手だろ。おまえ、今日は何しに来たんだよ」

 要は床に書き散らした紙をかき集めた。よせるはしから紙切れがこぼれていく。バイトやスタジオに入るスケジュール、初音に頼んだコード進行のメモ書き、修介の落書き――
 晃太郎が書き残したドラムパターン――

 しわくちゃになった紙の束をギターの上に被せていると、芽衣菜は足音を鳴らしながらキッチンに向かっていった。やかんに勢いよく水を入れている。

「検査結果、知りたくないの?」

 頭にむかって血液が逆流する。芽衣菜にかけよると、目を細めて笑っていた。

「妊娠なんてしてないわよ。そんなに心配だったの? 生霊に憑りつかれたみたいよ」

 要は自分の顔をなでた。皮膚のざらついた感触が伝わってくる。

「そんなにひどい顔してる?」
「鏡なんてめったに見ないんでしょ。コーヒー淹れるから、シャワーを浴びて髭も剃っておいで。そのくしゃくしゃの髪もといてあげるからね」

 くすっと笑って揃いのマグカップを用意する。要は深く息を吐き出した。
 ギターのハードケースを開けて、星形のピアスを芽衣菜に突き出した。

「忘れ物。おまえのだろ?」

 インスタントコーヒーの粉を入れる手を止めて、芽衣菜がふりむいた。

「次に来るときまで預かっててくれる?」
「いやだ」

 芽衣菜が受け取ろうとしないので、デニムパンツのポケットに突っ込んだ。
じわじわと湧いてくる欲情を飲みこんで、足早に立ち去った。

 洗面所で鏡をのぞきこんだ。普段は二重の瞼が、右側だけ三重になっている。厚い涙袋は倍ほどに膨れ上がり、頬骨のあたりまで隈が下りている。
最近は食事さえ面倒に感じる。空腹にならなければ、ずっと音楽に集中していられる。
 生きることは面倒なことの連続なのだと、つくづく思い知らされる。



 その日の夜十時頃、初音が家にやってきた。勤務先から直接来たらしく、リビングに入るなり鞄とコンビニのビニール袋を投げ出してソファに倒れこんだ。

 要はあわててギターのネックを引っ込めた。初音は淡いブルーのブラウスに紺のタイトスカートの恰好のままうつぶせになっている。髪の毛は乱れて頬のあたりを覆っている。

「疲れた……」

 そう言ったきり、動かなくなった。
 そっと手を伸ばし、長い髪を耳にかけてみた。緊張の解けた顔で寝息を立てている。

 父の入院がわかって以来、毎朝徹治の様子を見に行ってから出勤し、仕事が終わると高村家に報告にやってくる。十日も連続して会うのは初めてのことだった。

 指で頬をなでると少し反応したが、目は覚まさなかった。
 タオルケットをかけたあと、体をかがめて額に口づけた。

 初音が起きたのは午後十一時すぎだった。重そうな瞼をこすり、髪をかき上げる。小さな音でギターを鳴らしていた要と目があうと、あわてた様子で腕時計を確認した。

「何か食べた? 今夜はお母さんが研修で帰らないから一緒に食べようと思って」

 タオルケットが下に落ちると、ストッキングをはいた太腿があらわになった。あわててタイトスカートを直す。まだ意識が半分夢の中にあるようで、あわてた拍子にガラステーブルに足をぶつけた。

 要はギターを持ったまま立ち上がった。初音の腕をひいてもう一度ソファに座らせる。

「俺がやるから座ってて。何買ってきたの?」
「お弁当とお味噌汁……」

 また瞼が半分落ちてきている。弁当の入ったビニール袋を持ってふり返ると、ソファに座ったまま船をこいでいた。

 そばまで寄っても気がつかない。顔を近づけると、安心しきった様子で横になってしまった。こんなに無防備で、自分が襲うなどとは思わないのだろうかと要は首をかしげた。

 初音は寝ぼけ眼で弁当を食べながら、「あんなにこきつかわなくても……」と何度もつぶやいていた。旅行代理店の接客という仕事上、夏休みの時期は途方もなく忙しいのだろう。今にも寝てしまいそうな様子で力なく箸を握り、ぶつぶつと上司の文句を繰り返す。

 食べ終わると、少し力の戻った様子でお茶を入れ始めた。

「今日、誰か来てたの?」

 シンクにはカフェオレが少し残った揃いのマグカップと、ドーナツをのせるのに使った皿が二枚重なっている。

「あー……うん」
「芽衣菜が来てたんでしょ?」

 そう言った初音は、要を見ていなかった。やかんに手をかけたまま、シンクのあたりを見つめている。

 そこには、渡したはずの星型のピアスがあった。あいつめ、と要は舌打ちした。来たときは別のピアスをつけていたのだから、ポケットから取り出す必要なんてない。初音が来るのを知っていて、わざと置いていったに違いないと思った。

「新曲のパーカッションをどうしようかって話しただけ」
「そうなんだ」

 気のない返事が返ってきた。やましいことなど何もないのに、ごまかそうとしたのは失敗だった、とあとから思った。

 やかんが蒸気を噴き上げても初音は動かない。
 要があわててコンロのつまみをひねると、初音はぼそりとつぶやいた。

「あのターコイズブルーの石が入ったサンダルも芽衣菜のだよね?」

 芽衣菜がいつどんな靴をはいていたかなんて、かけらもおぼえていない。

 初音が持っていた急須を取り上げて、やかんから熱湯を注いだ。ふたを閉めて湯気がおさまるのを待っても、彼女は一点を見つめたままだ。
 要は急須と湯呑をもって逃げるようにリビングにむかった。背中に視線を感じる。

「湊人がいるんだからああいうことはやめたら?」
「どういうことだよ」

 要はガラステーブルの上に急須を置いた。陶器とガラスのぶつかりあう音が甲高く響く。
 初音はタイトスカートのすそを握りながらソファに座った。

「湊人が寝てる隣の部屋に連れ込んだり……」
「じゃあここでやれっていうのか」

 初音の腕をとってソファに押し倒した。腕にかかる力をふりきろうとして初音がもがく。

「ちょっと……何考えて……」
「晃太郎とロスにいくのか?」

 初音は動きを止めて目を見開いた。両腕に体重をかけると彼女の腕の力が抜けた。

「深町に聞いたの?」
「連れて行くつもりだけどいいのかって聞かれた」