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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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ファースト・ノート 6

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 この天然パーマの幼児は自分なのだと、本能的に感じた。しかし眼鏡の女性は全く記憶をかすめなかった。美穂とは別人だが、生みの親の「早苗」だという確信も持てなかった。

「自分の母親の顔、知らないのか?」
「物心つく前に亡くなったから、覚えてないんだ。それに俺の家には写真がないと思ってた。親父の若い頃を見るのも初めてなんだ」
「そっか。オレ、親父さんからもっと父さんの話聞きたいし、できるだけ病院に来るようにするから。要はなーんにも心配しなくていいからな」
「全くえらそうに」

 要はくすぐったくなって苦笑いをした。
 十六歳の湊人が、今の自分よりもずっと大人びて見える。

 談話室に入ると、要は自動販売機の前に立った。ジーンズのポケットから小銭を出して次々に投入していく。初音にコーヒーをさし出すと、彼女はまだ写真を見つめていた。

「知ってる人だった?」
「あ……ううん。違うの。お父さんとおじさんが知り合いだったなんてびっくり」

 固まっていた表情がようやく動いた。朝早いからか、いつもより顔が白い気がした。

「ごめんな。出勤前だったんだろ?」
「気にしないで。おじさんのことなら心配しないでね。私も仕事の合間に来るから」

 初音はコーヒーの缶を受け取ると、二枚の写真を要にむけた。

「俺はいいよ。たぶん湊人にやろうと思って探したんだろうし」
「オレは赤ん坊の要の写真なんていらないよ」
「はいはい。俺がもらいます」

 手を差しだすと、初音がそっと手のひらの上に乗せた。彼女の視線はしばらく写真に留まったままだった。髪の短い眼鏡の女性は、やはり自分の母ではない気がした。



 これから仕事に行く初音と、友達との約束があるという湊人をエレベーター前で見送り、病室へ戻った。

 廊下の角を曲がったところにナースセンターがある。看護師たちがせわしなく働いている前を、髪のない老人が点滴のスタンドにつかまって歩いていく。木の枝のように細い腕で手すりにしがみついて移動する中年男性の姿もあった。

 鼻につく消毒液のにおい、どこからか漂ってくる汚物臭。
 薄汚れたリノリウムの床を歩きながら、要は頭をかく。

 交通事故で入院した時と同じ病院だが、あの時と違ってこの病棟には死臭が漂っている。
 検査や投薬をしながら死を待つ日々。入院患者も付き添い人も見舞客も死から目をそらし、生にすがってもがいている。この現実から逃れる手段は死を迎えるほかない。

 両手で顔を覆った。つい最近まで父の存在が消えてなくなればいいと願っていたのに、死が顔をのぞかせる今、どうすれば普段通りの自分を保てるかわからなかった。

 病室に戻ると父は眠っていた。また夕方に来ればいいだろうと思い、駐車場にむかった。



 外はうだるような暑さだった。七日連続の猛暑日のせいでアスファルトは陽炎のように揺らめいている。入院病棟を取り囲むように植えられた木々から蝉の鳴き声が聞こえる。蝉たちは一心不乱に羽根をこすりあわせ短い命を全うしようとしている。

 真夏の高く冴えわたる青空には何の希望も浮かんでいない。白く分厚い入道雲が行く手を阻み、容赦のない太陽の熱が自分達の展望を黒く焦がしてゆく。

 耐え難い車内の熱を感じながらアクセルペダルを踏もうとした時、フロントガラスのむこうを横切っていく男の子の姿が目に飛びこんできた。

 咄嗟にブレーキペダルを踏んだ。男の子は視界から消えていた。冷や汗が額をつたう。
 ボンネットの先をのぞくと、男の子は驚きもせずに要を見ていた。

「あ……っぶなかったあ……」

 全身の力が抜ける。サイドガラスから小さな手が見えている。
 ドアを開くと、ボーダーTシャツを着た三歳くらい男の子が要を見上げていた。

「車のそばにきちゃ危ないよ。お母さんはどこ?」

 男の子は母親を探そうとしない。頭をかいていると、短い指を突き出して言った。

「かなた、このひとしってる。たかむらかなめ!」

 おぼつかない口調だがはっきりと名前を言った。
 口をあんぐりあけていると、お揃いのボーダーTシャツを着た女性が車の陰から姿を見せた。

「奏多、ひとりで先に行ったらダメって言ったじゃない」

 丸顔にリスのようなどんぐり眼、ゆったりと結んだ巻き毛からのぞく小さな耳。
 男の子が抱きついた女性は、芽衣菜だった。

「……おまえ、子供がいたのか?」
「なんだ要だったの? 子供産んだって言わなかったっけ?」

 芽衣菜は男の子を抱き上げて頬ずりした。

「まま、たかむらかなめ!」
「うんそうだね、ママが大好きな高村要だよ」

 そう言って奏多の頬にキスをする。奏多はくすぐったそうに笑った。

「初耳だよ……旦那がいるのに、家にくるのはまずいだろ」
「シングルだから問題ないよ」

 戸惑う要とは対照的に、芽衣菜は明るい笑顔で言った。奏多を見つめる優しいまなざしは、確かに母親のものだ。

「まま、びょういんいくよ。はやく」

 芽衣菜の腕からすり抜けると、彼女のロングスカートを引っぱりながら言った。

「どこか具合でも悪いのか?」
「ううん、生理が遅れてるから産婦人科を受診するの」
「子供が……できたのか」
「わかんないわよ。妊娠検査薬は陰性だったし、ホルモンバランスが崩れてるだけかもしれないし。あ、誰の子供か気になる?」

 あっけらかんとそう言った。奏多を凝視していると、彼はふいと顔をそむけた。

「もしおなかの子が要の血をついでたら、結婚でもしてくれるの?」
「そりゃあ……」

 言いかけて、唾を飲みこむ。芽衣菜は要の肩を叩いた。

「検査もしてないのに責任とれだなんて言わないわよ」

 そう言って笑い声をあげると、奏多を抱き上げた。

「その子の父親は、俺の知ってるやつか」
「要だって言ったら、認知してくれる?」
「……本気で言ってるのか?」

 芽衣菜と初めて関係を持ったのは四年ほど前のことだ。彼女にはいつも男の影があったが、正式に付き合ったことはない。不安定な生活をしていた要にとって、束縛のない芽衣菜の愛情はありがたいものだった。大家族の中で愛されて育った彼女の笑顔はいつも周りを明るく照らしてくれた。触れ合うだけで家族の温もりを分けてもらえる気がした。

 奏多の中に、自分の遺伝子を探そうとした。親子ならほんの少しでも似ている部分があるだろうと考えたが、握りしめたこぶしの中に汗がたまるばかりだった。

「うっそよ。この子の父親は要の知らないどっかの誰かさん」

 芽衣菜は歌うように言うと、病棟の方にむかってすたすたと歩きだした。抱き上げられた奏多が、要にむかって小さな手をふっていた。

 彼女たちが歩いて行った道をぼんやり眺めた。熱い風が吹きぬけていく。体だけでなく、心のひだも乾いていく心地がした。

                ***

 十日後、玄関のブザーが鳴る音で目が覚めた。ギターを抱えたまま寝てしまったらしく、体を起こそうとすると首筋や太ももが痛んだ。

 またブザーが鳴る。床に座ったまま、湊人はいないのかと周囲を見渡す。
 リビングに入ってきたのはストローハットをかぶった芽衣菜だった。