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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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ファースト・ノート 6

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6.リミテッド



 翌日の午前九時すぎ、要は病院のベッドに横たわっている父を見つめていた。顔は色を失い、頬はずいぶんと痩せこけている。力なく開いたままの口のまわりには白髪交じりの髭が生えている。口の上に手をかざしたあと、心臓のあたりにも手をおいてみた。ときどきこうして呼吸と脈を確認しないと、生死の判別もできなかった。

 パイプ椅子から立ち上がってカーテンを開けた。夏の陽ざしがさしこんでくる。父がベッドに横たわっていること以外は、いつもと変わらない街の姿があった。

 四人部屋だが他の三床は空いている。耳鳴りが聞こえてきそうなほど室内は静かだった。

 看護師たちの足音が廊下から聞こえてくる。彼女たちが小声で交わす会話、医療器具の重なり合う音、部屋にむかって近づいてくる複数の足音が心を乱す。

 初音と湊人がやってきた。白いブラウスに紺のタイトスカートをはいた初音が肩で息をしながら足早に近づいてくる。
 ベッドの白い柵に両手をかけ、目を閉じたままの父をのぞきこむ。

「末期の肺がんだなんて……信じられない」

 初音の声を聞いて、要の心は少し緩んだ。今朝の八時に看護師から電話を受けてから、ずっと張りつめていた緊張の糸がふっと解けた気がした。

「もう手術もできないし、今まで通り放射線治療と抗がん剤の投与を続けていくらしい。年は越せないって言われた」

 サックスブルーのTシャツを着た湊人が横に立ち、父を見下ろす。

「親父さん、家で煙草を吸ってたんだ。こんな体で、なんで煙草なんか」
「理屈なんてないんだよ」

 吐き出すように言った。提案も懇願も通ったことなど一度もない。泣いてすがっても家を出ていくし、忘れたころに帰ってくる。父に対する期待も見返りも、あらゆる感情を切り捨てないと自分を保ってこられなかった。

 たとえもっと早くに異変に気づいていたとしても、結果は変わらなかっただろう。
 心の一番冷めたところでそう思っても、目の前に横たわっている男が自分の父だとは思えなかった。父は今もどこか海のむこうで好き勝手に生きている。
 それが父の人生にふさわしく思えた。

「高村さん、検温の時間ですよ」

 看護師の明るい声が響いた。四十前後の肉付きのいい看護師があわただしく近づいてくる。三人で頭を下げると、ポケットから体温計を出しながら目を丸くして順に顔を見た。

「あらあ、高村さんたら立派なお子さんが三人もいらっしゃったの?」
「いや、息子は……」

 要が言いかけると、父がうっすらと目を開けて、横目で要を見た。

「うちの愚息はこいつだけです」

 骨と皮だけになったどす黒い手が要を指差した。力が入らないのか指先が揺れている。
 父の動きもおかまいなしに、看護師は脇に体温計をさしこんだ。

「まあ愚息だなんて。うちの息子が高村要さんの大ファンなの。朝から晩までへたっぴなギターを鳴らしてほんと困っちゃう。そうだ、今度サインもらっちゃおうかしら」

 ひとしきりそう言うと豪快に笑った。あっけにとられている要の向かい側で初音と湊人は笑っていた。

 看護師は頬に肉をよせて笑うと体温計を抜き取り、血圧を測る準備を始めた。ふくよかな胸元でネームプレートが揺れている。

「電話をしてくれたのって、あなたですか」

 手元の動きを止めず、血圧を確認しながら言った。

「そうよ。高村さんったらね、独身で子どもなんかいないっておっしゃってたのに、昨日になって突然、うちの愚息が……とか言い出したからおかしいなと思って問いつめたの。そしたら息子さんがいるって言うじゃない? びっくりしちゃってねえ、番号を聞きだして、かけさせてもらったのよ」
「そうでしたか……ありがとうございます」
「あとで担当の先生からお話がありますからね」

 血圧測定用のゴムバンドを片づけると、笑顔をふりまいて病室をあとにした。

「どういうことだよ」

 父の足元に集まっている掛け布団のあたりを見ながら要は言った。父はゆっくりと寝返りをうって要に背を向ける。何度か咳をしたあと、首まで掛け布団を引き上げた。

「どうもこうもないわい。医者が入院しろと言ったからそうしたまでだ」
「この前は病院を脱走してきたのか」
「外泊許可を取ったに決まっとるだろうが」
「家で吸ってたんじゃ、脱走と同じだろ」

 強い口調で責めよると、父は黙ってしまった。小さくなった肩が咳をするたびに揺れる。

「なんでもっと早く言わないんだよ」

 父は咳をしながら体を起こそうとした。細くやつれた手首はバランスを失い、反射的に父の肩をささえた。上体が真っ直ぐになると要の手を払い、ベッドの中ほどに座った。

 初音が水の入ったコップを差し出すと、父は緩慢な動作で一口飲んでから言った。

「わしの体のことはわしにしかわからん。お前の手を煩わせることもない」

 かすれた低い声が響く。父を見た。そこには家を空けるときに要を見つめていたあの遠い瞳があった。開いた窓から生ぬるい風が吹きこんでくる。

「じゃあ勝手にしろよ」

 要は吐き捨てるように言うと、ベッドの柵にかけてあったチェックのシャツを手にとって病室を出た。うしろから初音と湊人がかけ足でついてくる。
 廊下を歩きながら湊人が言った。

「親父さんのことなら心配しなくていいよ。俺が必要なものとか届けるから」
「なんでおまえが?」

 湊人の突然の申し出に思考回路がついていかず、すっとんきょうな声が出た。
 ハーフパンツのポケットから写真を取りだして、湊人は言った。

「見てこれ。親父さんがくれたんだ。こっちがオレの父さん」

 白い縁取りのある古いスナップ写真だった。白衣を着た若い頃の父と、湊人によく似た端正な面立ちの男子学生が映っている。

「二人は同じサークル出身なんだって。要の親父さんは研究ばっかであんまり練習には出られなかったけど、父さんはいつ行ってもピアノを弾いてたって、話してくれたんだ」
「同じサークルって……おじさんも楽器ができるの?」
「うそだろ。俺、きいたことない……」

 ふと古いアップライトピアノが思い浮かんだ。物心ついた頃から、あのピアノは壁の一部のように佇んでいた。ひどい音程になったピアノを要が叩いていたら、見かねた父が調律師を呼んでくれたことは、今でも覚えている。

「もしかしてあのピアノ……親父が弾いてたのか?」
「そうらしいよ。幼少期にクラシックもやってたけど嫌になって、父さんにコードの押さえ方から教えてもらったって言ってた」
「そんな偶然があるなんて……」

 初音は写真を手に取りながら言った。白い指が写真のふちをなぞり、なぜか角に爪を当て始めた。

「裏にもう一枚……」

 透明のマニキュアにコーティングされた爪をさしこむと、写真が二枚に割れた。
 プリントされた部分が破れないように丁寧にはがしていく。

 そこには眼鏡をかけた女性が、縮れ毛の幼子を抱いている姿があった。
 湊人はのぞきこんで言った。

「これってぜったい要だろ。くしゃくしゃの髪の毛が同じじゃん。濃い眉毛と目じりの垂れぐあいも変わってないな。この人は要の母親?」
「さあ……」