Days
目の前の男はぎこちなく不器用に、それでも嬉しそうに笑っていた。私は自分の人生にいきなり横入りしてきたこの出会いに対して、『運命の悪戯』などといういくらか錆び付いた言葉を思い起こして苦笑していた。
太陽がだんだんと傾いて空は少しずつ赤みがかる。時を忘れるとはこのことだ。帰路に就いてから、ようやく見知った景色に出会う頃には、空は一面に泣き腫らしたように紅く染まっていた。
軽く空を見上げていると、視界を右から左へ何羽もの影が横切って行った。一様に太陽の沈む方角に向かって。きっと彼らには帰る場所がある。空を離れ、羽を休め、夜を明かす場所がある。
道行く人々も同じ。進む方向は違っても、その先に自分達の帰る場所がある。どうしようもない明日、待ちに待った明日、それぞれがそれぞれの明日を迎える場所。
私も帰ろうか。彼の待つ部屋へ。
最後尾を追いかけていく影を彼方に見送ると、私は足早に帰り道を急いだ。スマホの着信音が鳴ったのはそのすぐ後だった。
「もしもし、恩? ごめんね、ずっと部屋空けちゃって。散歩と思って出掛けてたらつい」
「…ダメだよ、連絡ぐらいしないと」
「…ごめん」
……。
「都々里、今どこ」
「ええっと、もう近くだし、あと少しで着くよ」
「そっか…」
「恩はもう帰ってるんでしょ」
……。
「…恩?」
「……暗くならないうちで良かった。夜道に女の子ひとりは危険だからね。僕も今日は迎えに行けないから」
「ねえ、どこにいるの、恩?」
……。
「…良いお報せと悪いお報せがあるんだ。どっちから聞きたい?」
「…じゃあ、良い方」
「良いお報せ。ちょうど牛乳が安くなっててね、2割引きだったんだよ」
「それだけ?」
「それだけ」
「…じゃあ、悪い方は」
……。
とりわけ長い沈黙のように感じた。私の足も、その沈黙に聞き入るように自然とゆっくりになった。
「永遠の幸せなんて願っちゃだめだよ。そこに始まりがある以上、終わりも必ずやって来る。幸せでい続けようと思ったら、それは本当はとことん辛いことなんだから」
「はぐらかさないで、恩。何が言いたいの」
こんな事、言わなければ良かったのだろうか。
「…今日は帰れないんだ。今日だけじゃなくて、多分もうずっと。だから、都々里にはもう会えないんだ」
足が止まった。そこはすでにアパートに近い路地の中だった。
「……言ってる意味がよく分からない」
「…神様がね、帰っておいでって」
「冗談でもそんな事言わないでよ!」
無意識に昂った声が響き渡り、反響した声が自分の耳元に返ってくる。大きく膨れ上がった風船から空気が抜けていくみたいに、私の心は冷静さを取り戻して、後には堪えようのない寂しさが小さく残っていた。
「…どうしてそんな事言うの」
「僕がこんな酷い冗談言うと思う?」
スピーカーの向こうから聞こえる声には優しさと真実が並んでいた。恩はこんな声で嘘を吐かない。冗談にしては酷すぎる。しかし冗談でなかったらもっと酷だ。
「……本気、なの?」
「こうした話はいつだって、自分の本心から伝えるんだ、僕は」
そうだ。そういう人だった、恩は。
「神様が許す限り、僕は都々里のそばにいる。でも神様が、もう帰る時間だって言ってるんだ。僕も帰らないと」
別れ際の口実としては恐ろしく幼稚だ。いくら恩でもこんな見え透いた嘘は口にしないだろう。
「嘘なら嘘で正直に言えば、今なら許してあげるよ…」
それでも往生際が悪いのは、やっぱりそんな飛躍した話を信じられないからであって、真実であってもそれを受け入れたくないからであって、全てが冗談であって欲しいからだ。
「都々里にさ、こんな嘘吐ける訳ないよ。…吐きたくないよ!」
……。
「牛乳買って来てもらってないよ…」
「冷蔵庫で冷やしてある」
「家事とか一人で大変になっちゃうよ…」
「僕の分が減るから前と変わりない」
「金魚さんの水槽、まだ買ってないよ。一緒に買いに行くって…」
「…ごめん」
「……ずっと一緒にいてって言ったのに…言った、のに…」
「……ごめん」
自覚は無かった。自覚は無かったが、泣いていたようだ。
少しでも気を抜いたら転んでしまいそうだった。それでも無慈悲に、足は前に進む。
「じゃあ、本当に行っちゃうんだね」
こんな事を言いたいのではない。全く反対だ。
「泣いてるの、都々里?」
「分かんない。でも多分、泣いてる」
「…ごめん」
「言わないでよ」
「……ごめん」
「…じゃあ、行かないでよ」
沈黙は雄弁だった。お互いに何も言えなかった。
私は私の帰るべき場所に帰る。それは恩が待っている場所だ。他のどこでもない。しかし恩の帰るべき場所は違うのだと言う。アパートの301号室ではない。恩の帰る場所に、恐らく私は行けない。
それなら、私の帰るべき場所は、どこだ?
「分かんないよう…」
誰に発するべき問いなのかも分からなかった。ほぼ八つ当たりに近い。
「恩がいないのに…私の帰る場所なんて、分かんないよ、そんなの…」
泣いているせいでまともに喋っているかどうかも怪しい。
「分かんない…」
スピーカーの向こうは静まり返っていたが、ようやく小さく息を吸う音が聞こえた。
「都々里にはちゃんと帰る場所がある。ほら、もう目の前に」
涙で滲む視界には、見慣れたアパートの姿。こんなによそよそしく見えたことはこれまで一度だってない。あの階段を上って、三階の一番手前の部屋の扉を開けたところで、そこにはもう彼はいないのだから。
「お帰り、都々里」
不意に後ろから抱きしめられた。声はスピーカー越しにではなく、直接耳に入ってきた。何も驚くことはない。
そこはアパートから数十歩、いつかの紫陽花が咲いていた場所で、私と恩が初めて出会った場所だ。
恩の腕は温かく私を包み込んだ。その変わらない温かさが、今となっては辛かった。
「都々里は一人じゃない。僕がいなくなっても、都々里の世界を彩るのは都々里ただ一人じゃないから。だから、一人じゃない」
彼は静かにそう言った。いっそうぎゅっと私を抱きしめながら。
「僕がいなくなって、気が付いたら君は僕のことを一切忘れている。だから僕を思い出して悩んだり悲しんだりすることはない」
嫌だ、そんなのは。たとえ癒えない程の傷を残したとしても、恩のことを忘れるなんて、そんなのは。物言わんとする私の唇に、彼はそっと指を当てて制止した。
「これで最後。だからちゃんと言うね」
それは私のセリフだ。今までまともに言ったこともないのだから。
「好きだよ、都々里。ずっとずっと」
「……私だって、恩のこと好き。好き」
「さよなら」
言うが早いか、体の周囲から人の感触がなくなって、私を包み込んでいた温かさも幻のように消えていった。初めから私一人しかそこにはいなかったみたいに、本当に何もない。
相変わらず握っていたスマホからは、『ツー、ツー』という虚しい音だけが鳴っている。きっとこのスマホからも痕跡は一つ残らず消えてしまうのだろう。
疑いようもなく、私は一人でそこに立っていた。そこで出会い、そこで別れた。
「……好きだよう…」
空は泣き腫らしたように、本当に真っ赤だ。