Days
春のよく晴れた日
冬の冷たい殻を破って春の日差しが舞い降りた。太陽の下、目に映る全てのものが優しさに包まれるような、そんな季節になったのだ。
目を少しだけ開くと、柔らかな光が窓から差し込んでくるのが見えて、それが頭の中までも照らし出すように、徐々に五感が覚めていくのが分かった。私はベッドの上で横になり、どうしようもない怠惰な感情を胸に匿いつつ、かれこれ何十分かグダグダしていたところだった。何日か前まで部屋を満たしていた寒さが嘘みたいに、今は春がそこにあるだけだ。
「あれ、起きてたの都々里」
恩は外出するような出で立ちでそこにいた。マフラーや厚手のコートはすでに時季外れで、さすがに今は軽いジャンパーを一枚羽織っただけで事足りるようだ。
「どこか行くの?」
「まあ、ちょっと…。都々里が寝てると思ったから一人で散歩でも行こうかと思ってたんだけど、ちょうどいいから都々里も行こうよ?」
「…うぅん、私はいいかな。まだ部屋着のまんまだし」
恩は何やら考えているような顔だ。私に気を遣っているのだろうか?
「私はもうちょっとゴロゴロしているわ。ついでながら、牛乳が切れているので買って来て下さると助かる」
「…うん、分かった」
そう言うと玄関の方に消えていった。
しかしゴロゴロしてみたところで大した暇潰しにはならない。むしろ暇の上に暇を塗り重ねて暇に溺れるようなものだ。どうしたものかと悩む間にも時間は知らんぷりで流れていくもので、この体たらくだとあっという間に夕方になってしまう。窓の外では、日ざしがほんのりとした色を鮮やかに広げて私を待っている。春先の麗らかな風に乗って軽やかに通りを歩いてみるのも良いかと、その瞬間はとても魅力的に感じた。
特に行先も決めずにぶらぶら。最初はほんの近所を回るつもりが、もう少しだけ、もう少しだけ、と足を先に伸ばしていくうちに本格的なウォーキング並みの距離を歩いていた。疲れを感じることもなく、気付けば何十分も歩き通し、自分のアパートもどこにあるのか分からないくらいの遠くまで来てしまった。
春が街を覆う、とは言い得て妙で、他の季節とは違う、暖かくてふわふわしていて、自然と笑みがこぼれてしまいそうな、何か特別な空気に抱きしめられているような気がする。軽やかな風に身を任せるだけで体がふわりと浮かび上がって、どこか知らない場所までも飛んで行ける。そうでなくたって、きっと今ならどんな遠い所へでも歩いて行ける。
午後の散歩は続く。私は階段の続く急な坂道をゆっくりと上っているところだった。目立たない細い路地をいくつも進むうちに現れた坂、もちろん自分は一度も来たことがない。微かな期待と不安が心の中にチラチラと見え隠れする。階段の向こうから自分を誘うように風が通り過ぎて行く。さながら開け放たれた窓から入り込む春の風。
その向こうへ、私は駆け出す。
最後の一段を上り終えたその先。それは街を一望に見渡す高台。
風がいっそう気持ち良く吹き抜ける場所。街の全景などこれまで見たこともなかったが、自分で思っていたよりも目の前の景色は大きな広がりを持っていた。私の部屋はあの辺りか、などと指差して見ている景色は、今まで感じたこともないような幸せな色に満ち溢れ、分かったつもりでいたどうしようもないことでさえも塗り替えられてしまうような説得力を持っていた。
こんなカラフルな世界に生きていたんだ。
一年前の私だったら果たして同じ景色を見ているだろうか。これほどの色に満ち溢れた世界を。
私はモノクロの中に生きていた。色彩を失った日常、境界も定かでない白と黒の連続。それは多分部屋の中で、扉にはドアノブがない。内側からは開けることが出来ない。ドアノブは私の手の届かない外側にしか付いていなくて、誰かがそれに気付いて向こうから開けてくれるしか出る方法はない。いつからか私は外に出ることを諦めて、白と黒だけの風景にも慣れきってしまって、扉のこともその向こう側にあるものも徐々に忘れていった。
そして、私をそこから連れ出してくれる、いつか現れる誰かのことも知らず知らずのうちに考えなくなっていた。
「……都々里?」
名前を呼ばれた気がして立ち止まった。ずっと下ばかり向いて歩いていたから、道の途中に誰か他の人がいることにも気付かず、ぼんやりと靴の表面が雨水に濡れて色が変わっていくのに見惚れていた。
顔を上げると、見たことのない男性がそこにいて、こっちを見ていた。私のアパートから数十歩手前、ちょうど紫陽花の咲いている辺りに傘を差して立っている。どうやら声の主は彼らしい。
「だれ?」
名前を覚えるのは得意ではないが、顔だけなら一度しか会ったことのない人でもそれなりに記憶に残る。それでも分からないのだから、確実に私はこんな人など知らないはずだ。にも拘らず、初対面で素性の知れない相手であるとは思えないほど、不思議と静かな気持ちで彼を前にしていた。
「…君は、都々里?」
「そうだけど、あなたは?」
その言葉を聞くと彼は安堵したように顔をほころばせた。
「よかった……ようやく会えた」
「『会えた』?」
「そうだよ。僕はね、都々里のいる所に来たんだよ。」
彼の瞳は子どものように爛々と光っていた。例えばそれは、憧れの宝物を目の前にした時の子どもの目である。
「都々里がそう望んだから」
その瞬間に、まさしくハッと息をのんだ。まるで条件反射、不意打ちという名がこれ程にふさわしく当てはまることもないくらい。彼が放つ単語の音節単位で、懐かしみのある感触が呼び戻されているようだ。でも、私が一体何を望んだというのだろうか。
「私が…望んだ?」
そんな覚えなんてない。頭の中のどこを引っくり返しても、私が見も知らぬ男を呼んだ覚えなんてなかった。しかし彼の言葉は、自分が忘れかけていた深層の思いに手を伸ばそうとしている。それだけはたった一つの確かなこと。理屈で分かろうとする必要は無い。
「心当たりがあってもなくても、まあ案外神様ってのは、人の人生にちょっかい出したがるものだからね」
「……よく分からない」
「それで正解だよ」
いくらでも突っ込みのしようはある。本当はもっと状況を疑うべきなのかも知れないし、安易な奇跡に身を任せるのも自分の弱さの露呈かも知れない。でも、思いはいちいち表に引っ張り出さなくても、いつだって私の中にあって、自分の意識しないどこかでそれを信じていたのだろう。
私はずっと白黒の世界に生きてきたから、今更そのことを何とも思わないし、慣れ切ってしまった苦しみを苦しみとも感じない。これからもそんな毎日が続くのだとしても、変化に何も期待していなかった私にとってみれば、それは大した事ではない。
「…だけど」
私を連れ出してくれる人がいるとすれば
「あなたなのかも知れないね」
そうであって欲しい。直感だ。
「何が?」
「いや、こっちの話だから」
少しずつ、何となく見えてきていた。それまで白黒だった風景にわずかばかりの色が差す瞬間。そしてドアノブの回る音がする。