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紡ぎ詩Ⅱ(stock)~MEGUMI AZUMA~

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今年もまた大好きな花の咲く季節がめぐってきた
自然の生きものは誰に教えられずとも
季(とき)のうつろいを肌で知り自ら花を咲かせる
そして私たち人間は花に時の流れを教えられる
今日も誰に見られることを期待するわけでもなく
ひそやかに佇む乙女椿
そんな凜として謙虚な花に私もなりたい


☆『新書の香り』

古書より新しい本が好きだ
古い本を嫌いなのではない
古色蒼然とした古本ばかりがぎっしりと並んだ古めかしい図書館や町角の小さな古本屋
古いものたちの醸し出す独特の雰囲気は格別だ
それでもなお 新しい本を買うのは
その未知なる冒険へと導いてくれる本の扉を最初に開けて
本の中にひろがる遙かな世界を訪れる第一番目の旅行者になりたいから
もしくは
新しい本、真新しい紙の放つ特有の匂いに惹かれるのかもしれない
買ったばかりの本をそっと取り出して
まるで壊れ物を扱うような慎重さでページを開いてみる
鼻腔をくすぐる新しい本の匂いを胸一杯に吸い込む
この瞬間が好きだ

  ―さあ 
     新しい旅へと出発だ
     まだ誰も足を踏み入れたことのないまっさらな世界に
         最初の足跡を刻もう― 


☆『凜として咲く』

花は何故、誰も見ていないのに
あんなにもひたむきに咲こうとするのだろうか
その疑問は私の胸の中でずっと消えることはない

つい先刻
廊下を歩いていたらガラス越しに遠くに見えた紅色
ハッと眼を奪われた
あんな場所に紅椿があったのか
改めて愕いた
裏庭の更にその奥まった人気のない場所
この廊下からは丁度そこが見える
恐らく 私以外に足を運ぶ人はいないのではないか
かつて この廊下に面した客殿と呼ばれる広い座敷では
祖母がお茶の先生をしていた関係でお茶会が何度も行われた
大勢の茶人が訪れ、粛々とお茶を点て運び飲む
その際、順番待ちの人が廊下で庭を愛でる機会も多かったことだろう
私がまだ幼い頃の話
かつての華やかなさなどは遠い昔語りになり
今はひっそりとした時間が流れるだけだ

恐らく その頃から同じ場所で咲き続けていたのであろう紅椿
数十年を経てもなお凜として変わらぬ花を咲かせる

数日前、その問いは唐突に差し出された
凜、雅、麗、艶、これらの四文字から一つだけ選び取るとしたら
どれを選ぶか
どれも魅力的で選びがたいものがあったけれど
悩んだ挙げ句、「凜」を選んだ
私にとって「凜」というのは憧れでもあり目標でもある言葉だ
私の場合
「凜」という言葉からは必ず人気のない場所で誰に愛でられることもないのに
懸命に咲こうとする花が思い浮かぶ
人目に立つ場所で大輪の花を咲かせているのも見事なものだが
ひっそりと静かに目立たず咲いている花の方にいっとう惹かれる
自分自身がそのように地味な存在だからということもあるかもしれない

身を切るような寒さの中
意識(こころ)が透徹になってゆく
私の心の中に咲く一輪の紅椿も
たった今見たばかりのあの花のように凜として咲き誇れているだろうか
ふと 自分に問いかけてみる 

 

☆「頑張れ、我が娘よ」

―ママ、難関だったのに、バイトの試験が合格したよ
真っ先に報告にきた娘
いつもは「おばあちゃん子」なのに
嬉しいことを真っ先に伝えにきてくれるのはママなんだね
ママもとっても嬉しいよ
大学に入って 目的を少し見失いかけていたみたいなあなたを
心配して見ていたから

何でもやってごらん
人生は何度でもやり直しがきく
あなたはまだ若いから
無限の可能性がひろがっているんだよ

嬉しげに報告にきてくれた娘は
とっくに私の背丈を追い越している
けれど 息を弾ませて話をする大学生になった娘の向こうに
小学校一年の頃  初めて100点を取ったテストを見せにきた娘の姿が重なった
あのときも学校から帰って いちばんにママに報告にきてくれたよね


頑張れ 頑張れ
ママの世界一大切で可愛い娘


☆『春を待つ蕾たち』

 透明な陽射しにわずかずつ力強さを感じるようになる頃
 彼方から近づいてくる ひそやかな足音を聞く
 そう それは新しい季節の始まりを告げる使者の足音
 今日 庭に出て久しぶりに木蓮を眺めてみた
 少しだけ膨らんだ蕾は母親におやつを貰うのをワクワクして待ちわびる子どものよう
 あと ひと月もしない中にこの蕾たちは次々に膨らみ
 一斉にほころんで それはそれは見事な大輪の花を咲かせる
 木蓮の開花の時期は春の始まりとほぼ重なっている
 この純白の花が咲くと春が訪れたことを知る
 まるで天界に咲く天上花を思わせるような穢れなき真白の花たちは
 今も固く閉じた蕾の中で開花の瞬間を辛抱強く待っている
 長く厳しい冬のただ中
 彼方からかすかに 響いてくる足音に「希望」という名の 感情で心を満たしつつ
 私は春を待ち続ける
 庭で春まであとわずかの眠りに微睡む木蓮たちのように




☆「古里は遠くにありて」    

 京都で過ごした学生時代、大学が休みに入った翌日には、早々と寮を出て帰郷していた。新幹線など使ったことは殆どない。大抵はJRの在来線を使っていた。京都駅から新快速で姫路まで行き、姫路から播州赤穂駅経由で岡山駅行きに乗る。播州赤穂からは赤穂線と山陽本線に分かれ、私は赤穂線に乗って帰っていた。
 その帰り道の車内で決まって思い出す一文があった。「古里のなまりを聞きに停車場に行く」。高校か中学で習う石川啄木―これを呟いたときの啄木の心情に共感した記憶がある。
 播州赤穂駅から赤穂線に入ると、電車はしばらくして兵庫県から岡山県に入る。不思議なもので、兵庫県内では周囲から聞こえてくる会話はすべて関西弁だ。
「昨日、○○さんが○○しはってね」
「そうな、△△さんなら、そんなことはしいひんやろうね」
 ところが、電車が兵庫県と岡山県の県境を越えて岡山県に入った途端、乗ってくる人の会話がガラリと違ってくる。
「昨日、うちの猫が○○したんじゃ」
「そりゃあ、大変じゃったなぁ」
 私には懐かしい耳に馴染んだ岡山弁が声高に聞こえてくるようになる。
 県境を越えただけで乗客の方言が変わるというこの現象に、最初は愕いたものだ。愕きの次に押し寄せたのは、何ともいえない郷愁だった。
 四年の京都暮らしで、関西弁もかなり耳に馴染んで身近なものにはなった。神戸・大阪方面、或いは京都奈良の自宅から通ってくる同級生も多く、大学内で交わされる会話は自然と関西弁が中心だったから、慣れるのも当たり前であったかもしれない。
 しかし、どれだけ耳に慣れたとしても、たまに京都の町中で岡山から来たらしい岡山のバス会社の観光バスを見れば、懐かしさに何度も振り返った。古里は遠くにありて思うもの、まさにそんな心境であったろう。岡山で生まれ育った私が唯一県外で過ごしたのが京都で過ごした四年間であった。物事の渦中にいる最中は、その瞬間がどれだけ貴重なものであるか本人には判らない。私自身、京都で過ごした四年間の本当の価値を知り得たのは卒業して後のことである。