紡ぎ詩Ⅱ(stock)~MEGUMI AZUMA~
朝いちばんの澄み渡った空気を吸い込み、台所に向かう。高校生の息子のために、弁当を作るのが日課だ。育ち盛りの男の子にとしては小食のため、あまりたくさんは作らない。上のお姉ちゃんにはお礼なんて言って貰ったことはないが、息子はいつも「ありがとう」と律儀に礼を言って弁当を受け取り、帰ってきたらまた「美味しかったよ、ありがとう」を欠かさない。別にお礼が言って欲しいわけではないけれど、こういった息子の優しさに触れると何となく心がほっこりと温かくなる。
その朝、ちょっとしたアクシデントがあった。炊飯器の調子が狂い、保温していたご飯が食べられなくなってしまったのだ。そのため、弁当に間に合わせるべく急いでご飯を炊いた。何とか炊きあがって間に合い、登校前の息子に弁当を持たせることができた。いつものように「ありがとう」と受け取ってゆく息子の背に、「気をつけてね」とこれも毎朝の定番となった言葉をかける。細身ながら男の子らしく日々、逞しくなっていく我が子の姿が頼もしく見えるのはやはり、親馬鹿に違いない。
たまに弁当を作らず、「パンを買ってね」とお金を渡すときもある。そんな日はもう少し遅い時間帯に起床するのだけれど、やはり、早起きして弁当を作った日の方が気持ち良い。
息子を送り出してから、私はもう一度、廊下に佇んだ。深呼吸すると、かすかに花の香りの混じった秋の空気が身体中に流れ込んでくる。まるで心と身体に澱のように降り積もっていたすべて―嫌なものも含めて―が洗い流されてゆくような心地がする。我が家にはないオレンジ色の芳香を放つ可憐な花が咲き誇っている風景がふと、瞼にくっきりと浮かんだ。
☆『下弦の月~夜明け前~』
月が出ている
まだ夜明け前の薄青さをそこここに残した空に
やや㊨縁の欠けた月がくっきりと浮かんでいる
早朝の凍てついた大気の中
見上げる私の視界に
小さく見える月を背景に二つの巨大な建物がそそり立つ
かつて双方の家にはどちらもたくさんの人が住んでいた
右側の二階家は既に住む人もない廃屋と化し
左側の三階家は老夫婦だけがひっそりと暮らしている
かつて子どもたちの歓声が溢れた家々は
今 ひそやかな静けさをいまとい佇むのみ
まるで 巨大な恐竜が永い眠りを貪るかのように
時は流れ季節はうつろい
人は生まれ生きて やがて消える
この世に変わらないものなどあるのだろうか
蒼白い月はただ静かに
今はひっそりと眠るかのような家々を見下ろしている
ただ月だけがこれから百年先もずっとここにあって
変わらず私たち人間を見下ろしているのだろう
私は月を見上げ
月も私を見下ろす
私の立つ場所からは
薄い藍色の空に浮かぶ月は
まるで二つの建物だけを見つめているようだ
ただ ひたすら慈しみのこもった静謐なまなざしで
この世には他の何も存在しないかのように
三階家の壁を季節外れの朝顔が覆っている
すみれ色の小さな花がその小さな体をそっと晩秋の寒風に震わせた
☆『幻惑~京都高台寺参道にて』
眼の前に真っすぐ伸びるひと筋の坂
両脇には今を盛りと真っ赤に染め上がった紅葉が立ち並ぶ
ゆるやかな弧を描いて上に向かってゆく長い石畳を見つめている中に
束の間 私の脳裏に残像が浮かぶ
奇しくも その風景は今、自分が眼にしているものとそっくり同じだった
石畳に沿って並ぶ紅蓮の焔のような樹々
散り敷いた鮮やかな落ち葉たち
ただ違っているのは、雨上がりのゆえか
石畳が濡れた様が何とも風情があり
今のように大勢の観光客で溢れ返っているわけでもなく
森閑とした静寂が写真の中からでさえ伝わってくるようだった
思えば 生まれて初めての京都旅行で買い求めた小さな栞
あの一枚に閉じ込められた美しい風景が
その六年後 私を京都の大学進学に導いたのかもしれない
ふいに喧噪が耳を打った
行き過ぎる外国人観光客が私の傍らを足早に通り過ぎてゆく
私は長い物想いから現に立ち返る
振り返れば石畳が真っすぐに伸びている
私の数歩後ろで同じように熱心に坂道を眺めている少女がいた
古都へのほのかな憧れを瞳に滲ませて
あれはもしかしたら〝あの日〟の私かもしれない
艶めいた紅葉の鮮やかさに幻惑されそうになり
思わず眼を閉じる
ひと刹那の後 眼をゆっくりと開けば
幻の少女は消えていた
『私らしい速さで~ザ・2016~』
―禍福はあざなえる縄のごとし。
そんなことを言った昔の人がいたというが
自分がある程度歳を重ねてくると
まったくそのとおりだと頷かずにはいられない
せっかく良い波が来て乗れたと思ったら
次の瞬間にはもう波から落ちて海面にズブンと投げ出されたいたなんてことはザラだ
長らくツキに恵まれず やっと恵まれたと思ったら
その運の尽きるのだけは早かったりする
だけど もう一つだけ判ったこともある
人生には良いときも悪いときもちゃんと交互に巡ってくるということ
良いときは刹那的に思えるかもしれないが
悪いときというのは現実に過ぎた時間より当人は長々しく感じられるものだから
存外に良いときも悪いときも時間にしてみれば
さほど変わりはないのかもしれない
人生は試練の連続だ
けれど 解釈のしようによって
試練を這い上がれるための反省材料にもできるし
被害が最小限で済んだと思えるかもしれない
大切なのは考え方一つ
ステップアップできるか
そのまま前進できないか
運気を上げられるかどうかの鍵は自分が持っていたりする
私の好きな言葉がある
―トラブルを歓迎しろ。
何があっても続けなきゃ意味がない
諦めたらそれで終わりだと思っている
諦めない限り 前進はできる
そう思って ここまで歩いてきた
今年もそろそろ終わろうとしているけれど
来年もその心意気で自分なりにゆっくり しっかりと進んでいこうと思う
〝不退転〟
時には立ち止まって周囲の景色を眺めながら
自分なりの人生の夢を遠くに見据えつつ
私らしい速さで歩いていこう
☆乙女椿』
廊下に佇み何気なく視線を動かせば
その先に緑の葉もつやつやしい樹があった
私が子どもの頃から変わらずそこに立つ
ひそやかに けれど 確かな存在感を主張しながら
物心ついたときには既に同じ場所にあったのだから
樹齢もかなりのものになるのだろう
今朝 ガラス窓を通して見た樹には
たくさんの蕾がついていた
花もわずかながら咲き始めている
見事な濃いピンクの乙女椿だ
はんなりとした柔らかさと毅然とした強さが同居しながらも
たおやかさはけして失わない
この季節になると頂きものの和菓子の中に
乙女椿を象った饅頭を見ることがある
まさしく自然が作り上げた美しい造形
繊細な花心 濃やかな肉厚の花びら
大振りの艶やかな花を見る度にその端麗さに見惚れる
古人(いにしえびと)は椿を縁起が悪いものと言った
桜のようにはらはらと散るのではなく
花ごと ぽってりと落ちるからに違いない
けれど 私はその潔い散り方が好きだ
何の痕跡も残さず呆気ないほどに早く落下する
願わくば何事につけてもそうありたい
自分が椿を好きだと知ったのは
奇妙なことについ最近だった
もしかしたら 不吉な花だと他人に言われ続けて
自分の中で意識しはないようにしてきたのかもしれない
作品名:紡ぎ詩Ⅱ(stock)~MEGUMI AZUMA~ 作家名:東 めぐみ