紡ぎ詩Ⅱ(stock)~MEGUMI AZUMA~
高麗美術館で行われたていたのは、「仏教の輝き、青磁の輝き」展だった。四月から七月まで長きにわたって行われているらしい。私は趣味で多少仏画をやっているので、仏画や仏像にも大いに興味がある。やり始めたばかりの頃はさほどでもなかったのだけれど、長くやっていると巧拙に拘わらず、「仏」についてもって知りたいと思うようになる。といえども、何も難しいいわれなどを知りたいのではなく、たくさんの仏様を見て、その表情やお姿を心の目に鮮やかに焼き付けておきたいのだ。
本当はこの仏様の名前は何で、由来はこうで等々、知識として持っている方が望ましいのだろう。しかし、私の持論は何事も難しすぎると長続きしないというのがある。言い方を変えれば、あまりに高みを望みすぎると、かえって意欲を失ってしまうということだ。それでは進歩がないと言われても仕方はないが、何事も無理せず自分のレベルやペースに合わせて続けてゆくのがいちばんだと思っている。幾ら高い理想を掲げてみても、続かなければ意味がない。
なので、こういう仏様を見るときも、難しいことは考えない。理屈抜きにただ仏の姿を拝観し、そのお顔を見て持つのは「この仏様は優しいお顔をなさっている」―とても単純な感想だ。隣の仏様を見ると、その表情の違いは更に明確になる。厳しいお顔をしている仏様もあれば、柔和というよりは可愛らしい、無邪気ともいえるお顔をされている仏様もおられる。そういう違いを心に刻み込んでおくのである。また、纏っておられる衣の優美な曲線なども見ておく。
何年代にどこで創られたかということも大切だけれど、自分が今度仏様を描くときに、高麗美術館で拝見した仏様のお顔が浮かんでくれば、わざわざ見に行った価値は十分あると思う。
今回は青磁器や仏像、仏画が中心に展示されていたが、どの仏様もあまり厳しい顔をさている方はいなかった。むしろ、優しいお顔や可愛らしいといっては罰当たりだが、そういう雰囲気の仏様が多かった。
昔の韓国と仏教の関係は複雑なものがある。朝鮮王朝時代は儒教の考え方を国の基本としたため、仏教はむしろ排斥される対象となった。しかしながら、高麗時代にはむしろ仏教は手厚く保護された時代であった。数々の仏像が創られ、寺が建立された。
そういう仏教文化華やかなりし時代の韓国で、この仏像たちは生まれたのである。そう考えると、何か不思議な郷愁めいた感情がわき上がってくる。それは最初に、博物館の表の墓(レプリカ)や石像を見たときの気持ちにも似ていた。
韓国人というわけでもないのに、何故、そんな気持ちになるのか自分でも不思議だし、理解できない。もしかしたら、韓国の歴史が好きだからなのかもしれない。
事前に美術館の方にお尋ねしたとおり、こじんまんりとした作りで、二階まで見て回っても1時間足らずで見学できた。二階は韓流時代劇でよく見かける両班の主人夫妻の居室の様子が精巧に再現されている。韓国時代劇好きの私は思わず歓声を上げてしまった。こ一階から二階に来ると、さながら高麗時代から一挙に朝鮮王朝時代に時を飛んだようでもある。ここは撮影は自由なので、写真を取った。壁に飾られている韓国の伝統民芸のポジャギやガラスに描かれたチマチョゴリ姿の女性が美しく印象的だ。二階では自由に写経できるスペースもある。時間があれば、もっともっと居てみたいような静かな心地よい空間だ。
帰りは表の石像と一緒に自作を持って記念撮影。あたふたと帰る私を無数の石像たちが無言で見送ってくれた。
この後、私は美術館の近くがたまたま大学時代の恩師のお住まいであったため、恩師を訪ねた。元々、私に文芸の道を進め、「東めぐみ」誕生のきっかけを創って下った先生である。事前に何の連絡も差し上げていなかった(時間の都合で立ち寄れないことも考えられた)ため、愕かせてしまって申し訳ないことをした。手紙ではご高齢のための不調を訴えられていたが、見た限りではお元気なので安心する。
その美術館から十分と離れてない地元の方は「あまり行ったことがないんだよ、一度くらいは行ったかな」ということだった―笑。地元の人というのは案外、こんなものだ。私自身、地元の名園後楽園など、普段は行くこともない。日本三大名園といわれている割には、地元の人はいたって淡々としている。どこも似たようなものだと思う。
この美術館を訪れたことで得た知識を直接、作品に還元するというわけではない。ただ、この小さな美術館に足を踏み入れて「高麗時代の風」に吹かれた時、私の中の何かが変わった、もしくは動き出したような気がする。
☆『秋想~色づく果実に想いを重ねて~』
温かな黄昏の陽差しを浴びて
蜜色に染まる柿が庭の片隅でひっそりと息づいている
深まる秋の中で
柿の実たちは何を想い
日々、色を深めているのだろうか
夜 すだく虫の音に耳を傾けながら
どんな感傷に浸っているのだろうか
或いは この先も続く未来に明るい希望を夢見ているのだろうか
日ごとに朱(あけ)の色を深める柿の実を見ながら
重ねるのは他ならない自分自身の心なのかもしれない
☆『静寂の一瞬~鳥と南天と私~』
清澄な朝の大気の底をわずかに震わせるさえずり
かすかなその啼き声に耳を澄ませてみれば
南天の細い枝にちょこんと止まる小鳥
そこだけうっすらとわずかに葉の先を紅く色づかせた南天と
黒に近い灰色の小鳥
―一瞬の静寂―
刻が止まる
私はいつしか呼吸するのさえ忘れて
その光景に見惚れていた
まさに一幅の絵にもなるような光景
その部分だけを切り取って閉じ込めておきたいような
今というかけがえのない時間を
刺繍のように永遠に縫いとどめておきたいような錯覚に囚われた
―かすかな羽音の後
鳥は再び飛び立った―
止まっていた刻が再び動き出す
カメラを取りに行きかけた私は脚を止める
後には、小さく揺れる南天の枝と
呆然と取り残されている私がいるばかり
☆ 『花の香り』
いつものように携帯電話のアラームが鳴り響き、起床する。午前六時前、日の出は日ごとに遅くなってきてはいるが、この時間はもう外は十分に明るい。まだ隣で眠っている末娘を起こさないように気をつけて部屋を出て、廊下に立つ。刹那、朝の清澄な大気が胸一杯に流れ込んでくる。
大気には、明らかに花の香りが混じっている。キンモクセイの香り。私の大好きな匂いである。我が家の庭には花を愛した祖父母の丹精した草木花がたくさん植わっている。花のことなど一切判らない私だけれど、できる限り、祖父母が大切にしていたものを守ってゆきたいと考えている。
この時期、庭には色づいて秋の深まりを告げてくれる柿、小粒の宝石のような実が愛らしい紫式部などが眼を楽しませてくれる。残念なことに、これだけたくさんの花があるというのに、キンモクセイだけはない。にも拘わらず、はっきりと空気に花の香りが含まれているのは、ご近所から流れてくるものだと察せられる。
作品名:紡ぎ詩Ⅱ(stock)~MEGUMI AZUMA~ 作家名:東 めぐみ