正常な世界にて
さすがに、二人同時に退職を申し出るのは怪しまれるかなと思った。だから、一人で辞める勇気が無くて、二人同時に申し出たということを、ついでに伝える。信じてもらえないかもしれないけど、下手に怪しまれるよりかはマシだろう。
「卒業まではやっていけると思ってたんだけど……」
寂しそうな表情を浮かべる高山さん。働きを期待されていたという自体は嬉しいことだけど、ここの「仕事」でそれを期待されては困るのだ……。
「ちょっとの時間でもいいんだけど?」
人材の引き止めにかかる彼女。退職者が出たら、減給されるのだろうか。
「いや、中途半端なことはできないよ」
坂本君が言った。彼には珍しい正論だね。私は黙ってうなずき、彼の言葉に賛同する。
「……そう」
彼女は、虚しさ感じる口調でそう言った。今の彼女からは、悲壮感と虚無感しか伝わってこない……。普段の彼女が放つ明るさは皆無だ。
……しかし、木橋が転落死したときの高山さんを、ふと思い出した途端にだ。彼女は今、ただ演技をしているだけじゃないのかという疑惑が、私の中に急浮上した……。もしかすると、すぐ隣りにいる坂本君の中にも、その疑惑が浮上していそうだ。
精神病質の彼女なら、演技により平気で人を騙せるかもしれない……。ちょっとした演技ぐらいなら、私もたまにするけど、友達を騙すということまでは、とてもできない。
彼女が演技しているとすれば、その理由は、私たちをどうしても引き止めたいからだろう。もしくは、巻き込んでおきたいからだ……。それなら、なおさら辞めないといけないね。
坂本君が、「給料をアップしてくれるなら残るよ」とか言い出さないかと、私はふと不安に思う。だけど、彼の強い意志がこもった顔つきを、チラ見で確認すると、その不安は解消された。
ようやく諦めてくれた高山さんを尻目に、私と坂本君は、退職の手続きをする。残りの給料を経理係の人から受け取り、使ったままにしていた備品をもとに戻したりだ。気まずさが酷いので、さっさと済ませなければ。
あのIという人も仕事場にいた。ただ、他人を装いたいらしく、素知らぬ顔をしている。
「じゃあ、高山さん。失礼するね」
「いきなり辞めて悪かったな」
仕事場を後にする際、私と坂本君は高山さんにそう言った。
「うん。……初詣はいっしょに行けるよね?」
寂しそうに尋ねてきた高山さん。