正常な世界にて
「こういうタイプはちょっとだけでいい」
Iは坂本君にそう言うと、パワー系男の右側にさっと移動した。そして、男の右膝裏を蹴った……。だけど、本気の強いキックではないようだ。音はそんなに立っていない。
「ウ、ウーー!」
すると男は、右足からバランスをがくんと崩し、無様に転んでしまった……。大柄な男が転倒したせいで、電車が少し揺れた。
Iは男に、いわゆる「膝カックン」に近い攻撃を加えたということだ。普通の人なら、なんとか転ばずにすむだろうけど、知的水準が確実に低いパワー系男には難しいことだったらしい。
「ウウウーーー!! ウウウーーー!!」
大声で泣き出したパワー系男……。その場で転んだだけなんだから、そんなに痛くないだろうに。
坂本君はというと、奇妙な展開にポカンとしていた。それでも必死に攻撃を避け続けていたので、息苦しそうにはしている。
「次で降りるんだけど、お前らもそうしたほうがいいよ」
Iはそう言うと、ドアの前へ移動した。ちょうど電車が、その駅のホームに入り込む。名古屋駅だった。
「ちょっと待ってよ! 聞きたいことがたくさんできたんだけど!」
私は声を呼び止めようとしたけど、Iは素知らぬ顔をしている。もうすでに、「赤の他人」を決め込んでいるらしい……。ラインのIDを教えてもらっているとはいえ、直接話を聞きたかった。
「な、なあ? 何かいろいろ話を聞いたんだろ? ボクにも教えてよ!」
彼を説得しようと席から立ち上がった私の前に、坂本君が通せんぼみたいな形で立ってしまった。
おまけに、名古屋駅で降りる人は多いため、ドア付近にいたIの姿が見えなくなってしまう……。そして、その次の瞬間には、電車は駅に停まっていた。
電車のドアとホームドアが同時に開き、たくさんの人々が電車から降りていく。
「のぶぅこさんや。おひりゅはまだでしゅかのぉ?」
あのおじいさんは降りる人々に踏まれつつも、ボケ続けていた……。まあ喋れているから大丈夫だろう。
「坂本君! 後で話すから後で!」
私は坂本君を無理やり脇へどかすと、Iを追いかける。
ホームは降りたばかりの人々でごった返していた。しかも、後ろから来る人々に押されてしまうので、この状態で彼を探すことは、とても無理なことだ……。