正常な世界にて
伊藤に託されたとはいえ、今日この場で絶対使わなきゃいけないわけじゃない。「使う場面があれば使え」という話だったはず。少なくとも、私と高山さんが床で取っ組み合いする場面以外で……。
高山さんを何とかするなら、背中の弾切れ自動小銃で殴ればいい。あるいは、右横腹に蹴りさえすれば。
「いくよっ!」
予想できてたけど、坂本君はその爆弾を私たちのほうへ放り投げた。ポケットに入るサイズの小さな砂糖爆弾が、スローモーションで弧を描き、二メートルほど近くの床に落ちた。五百グラム分の砂糖が詰まったビニール袋が、床へ落下したときの音と変わらない。形状は崩れていないけど、中身はほぼ粉末らしい。時限式じゃなく接触式の信管だったら、私たちは階段まで吹き飛ばされてる……。ズシリとくるショックで、危うく漏らしかけた。
「さよならね」
砂糖爆弾へ釘付けになる中、高山さんが私に言った。その捨てセリフから一秒も経たない内に、左足から激痛が迸る……。今度は漏らしたかもだけど、それどころじゃない。
彼女は立ち上がる際に素早く、私の左足にナイフの刃を走らせたのだ。短く浅い裂傷だけど、ふくらはぎから伝わる痛みは見た目よりも強烈だ。左の手のひらで傷口を覆いかけたことすら、間違いに思える激痛。
睨んだ先の彼女は背を向け、開いたホームドアから線路へおりるところ。直後に見えなくなる、彼女の焦げ茶色の髪。
あそこでしっかり伏せれば、爆風は避けられるはず。けど、私はこのまま死ねというわけだ。
爆弾へ視線を移す私。手が届きそうで届かない絶妙な位置で、砂糖爆弾は時を刻んでいる。不発で終わる気配はないし、期待するのはバカだ。
「なんとかして! 早くきて!」
恥を忍び、私は坂本君に叫ぶ。生存本能からだけど、爆弾を投げた本人に助けを乞うのはマヌケに思える。けれど、このまま死んだらもっとマヌケだ。
幸い、今度の叫び声は彼の耳に届く。彼は転びかけるほど急ぎ、私の元へ飛んできた。左胸の痛みで顔を軽く歪ませてるけど、申し訳なくは思わない。
「ホラ、早く早く!」
まあ、こんな調子だとわかってたからね……。
彼は私を無理やり立ち上がらせ、左肩を右腕で支えてくれる。そして、共に前のめりの姿勢で、開いたホームドアへ向かう。待ち伏せを警戒し、高山さんがおりた箇所の一つ隣りへ。
起爆までの時間は、たぶん十秒ちょっと。彼も残り時間を薄ら把握できてるらしく、右腕で急かしてくる。
これでも必死だ。背後の砂糖爆弾へ振り返る気も湧かないほどに。