正常な世界にて
【第48章】
関節を無理に曲げた動きで、坂本君はバタフライナイフの刃を避ける。彼の首元を狙った高山さんなら、骨の関節が音を立てるのを耳にできたかもしれない。
「おおっと!」
駆けつける私が聞けたのは、彼の間抜けな悲鳴だ。偉そうに言えないけど、彼は高山さんが反撃できると考えてなかったらしい。殺されかけた恐怖感よりも驚きのほうが強く聞こえた。
もはや高山さんは、強力な薬のおかげで普段の動きを取り戻せていた。薬の空き瓶に書かれてた「大須製薬」という社名は、彼女の父親が経営していた製薬会社。
彼女はそれで飯にありつくだけじゃなく、実際に命を繋げられた形だ。亡き両親の代理を立てた上で、会社内でやりたい放題に違いない。だから彼女は、強くて高そうな薬を一瓶丸ごと使えたのだ。
そして、薬を飲んだ彼女は、時間稼ぎのため、回想話までしてみせた……。
それでも坂本君は、ナイフを奪い取るべく、両手を高山さんの右腕へ伸ばす。私は彼女の髪を引っ張ってやろうか。パーマのかかった茶髪が何本も抜けるほどやれば、首に激痛を与えられる。
しかし、彼の両手は右腕を掴めず、彼女は間合いを素早く取った。おまけに彼は、右手の甲に切り傷まで負う始末。
「イツッ……」
顔を歪めながら、傷口と高山さんを交互に見る坂本君。たいした出血量じゃないけど、彼を苛立たせるには十分過ぎた。
彼はショットガンを構え、彼女の額へ銃口を突きつける。引き金にかけられた人差し指。情け容赦せず、世間話もしない姿勢だ。
駆けつけた私は、三歩ほど下がった位置でタイミングを伺う。坂本君がそのまま撃てば、血しぶきや肉片やらを浴びる羽目に。
「おっと」
「イツツッ」
高山さんが左手で堂々と、ショットガンの銃身を掴み、銃口を天井へ向けてしまう。坂本君が右手に負った傷は、見た目よりも深手で痛むらしい。じゃなければ発砲し、彼女の顔は一変したはず。
「ボォン!!」という銃声と共に、彼らの頭上にある電光掲示板が半壊する。坂本君が焦りから発砲したのか、銃身を掴まれた拍子なのかはわからないけど、これでショットガンも弾切れに……。
電光掲示板のパネル片や千切れたコードが、私の頭にも降りかかる。髪に絡まる前に振り払いたいけど、そんな余裕はなかった。
「うわっ!」
高山さんのバタフライナイフの刃が、坂本君の左胸へ突き刺さった……。刑事ドラマみたく、深々かつ簡単に。
「な、鳴海君!」
名前で坂本君を呼ぶ私。勢いよく出た、安直なセリフ。