正常な世界にて
スマホを投げようと考えたけど、それではバレる恐れがある。床に落ちたスマホが立てる音は、多くの日本人が一度は耳にしている。スマホの落下音なんて耳にすれば、これは罠だと即座にわかるはず。そして彼女は、落下音とは逆方向へ、銃口を向けつつ進むわけだ。
……とは言うものの、スマホ以外の物を投げてもバレる可能性はある。たぶん彼女はバカじゃないしね。
逃げ道や誰かいたりしないものかと、私はピロティ内を見回す。人気のない駅事務室や略奪後の売店が見えるだけで、犬や猫すら見かけない。
この池下駅は自宅の最寄り駅じゃないけど、坂本君関係で何度も利用している。元から賑わってはいない駅だけど、地下鉄車庫や区役所がある関係で、人目は必ずあった。彼と付き合い始めた頃は、視線が気になり恥ずかしかったもの。
だけど今なら、人目を気にする必要はほぼ無い。もしもの時は、彼と別れのキスだってできる。……彼女が時間を許すならディープなのを楽しむけど、どうやら許されないらしい。
ピロティに響き始めた彼女の足音からは、せわしなさを伺える。私たちをあっさり殺し、日没前に手柄を持ち帰りたいんだろう。淑女とは程遠いね。まあ、車も地下鉄も使えない今、帰る先が遠い点もある。
……彼女の「足」に思い至ったとき、解決案も共に浮かんでくれた。
「あのハリアーは特別な車だったりする?」
坂本君にそう尋ねたのは自然な流れだ。