正常な世界にて
そのとき、私はある点に気づく。いや、気づいてしまった。この場のおかしい点に……。
高層マンションのロビーに死体が転がっている点だけでもおかしいけど、気づいた点は追い打ちになりえる悪い予感だ。私の場合、そういう予感は的中するもの……。
単刀直入に説明すると、床の汚れが足りない。管理人の仕事ぶりじゃなく、床を汚す血の量が明らかに少ないという話だ。
仲間の死体二つや少女の周りの床面は、赤黒い血で汚れている。だけど、それ以外には一滴も垂れていない。エレベーターで最上階から、シーツから血が滴り落ちる死体を運んできたにも関わらず……。
「なあ森村、アイツら先に帰るとか言ってた?」
ロビーに戻った坂本君が尋ねてきた。声をかけられるまで私は、男の前腕を引き突っ立ったままだった。
「どうしたの? あの大丈夫?」
男の腕を引き剥がしながら、さらに尋ねてくる坂本君。最悪の光景を頭に浮かべつつ、私はエレベーターのほうを指さす。エレベーターのドア前に、血は一滴も見当たらない……。
「…………」
思いが珍しく伝わったらしく、坂本君は同じ予感を察してくれている。足早に向かい、エレベーターのボタンを押した。
……ドアが開いた途端、赤い液体がドバッと流れ出てくる。一昔前のホラー映画を想起させる光景が、目の前で今起こっている。残り湯のあるバスタブが横転したような液量で、一気に流れ出た血は、坂本君の靴を汚し、灰色の床面を赤く染めていく……。
「ヒィ!」
短い悲鳴をあげ、私は後ずさりする。だけど避け切れず、私や男の靴も赤く汚れてしまった。
「な、なんだよ……。ここまで……ここまでアイツらするのかよ……」
さっきまで抱いていた自信を完全に失っている坂本君。だけど、それをバカにできない。
彼は今、私が思い浮かべた最悪の光景をリアルに目の当たりにしているのだから……。
エレベーターで先に降りた全員が、箱内で静かに息絶えていた。虫の息すらおらず、死の恐怖や絶望がそこに凝縮されている。人体を貫通またはかいくぐった弾が、箱に穴を空けているはずだけど、壁は血ですっかり汚れ、一つも見つけられない……。
臭いがまた猛烈で、とうとう堪えられずに嘔吐する私。噴き出した黄色いゲロが、床で赤く染まっていく。ああ、喉がヒリヒリと痛む。
そして、他の二人も吐いていた。ゲート係の男なんて、今にも失神しそう。両膝に手を置き、なんとか堪えているところ。
……数滴分の悔し涙が、私の歪む頬を伝った。惨劇の追加上映といえるこの光景は、いくらなんでもあんまり!