正常な世界にて
引き金を引いてコンマ五秒ほど後、銃弾はベランダの壁に当たった。タイルの破片が、スナイパーを覆うシーツにも飛散し、彼女の頭を軽くこづく。
ああ、外してしまった! まだまだ素人の私が、遠距離から見事仕留めるなんて無理があったのだ。快く引き受けたにも関わらず、虚しく恥ずかしくなる……。
殺し損ねたスナイパーは、シーツごと身を素早く退き、ベランダのどこかに隠れた。外れたとはいえ、頭上を撃たれた彼女は、明らかに驚きを示していた。おそらく、高山さんからは簡単な仕事だと言われてたんだろう。たいした反撃もなく、一方的に人を撃てるんだと……。
「移動! 今すぐ移動しよっ!」
坂本君が私の背中をバシバシと叩いた。正直痛いけど、私の記憶を呼び起こすきっかけにはなった。そうだ、チャンスはまだあるんだ。
私と坂本君は中腰で立ち上がり、花壇のそばから移動する。スナイパーから反撃を受ける可能性を、少しでも減らすために、違う場所に移るのだ。着弾点や銃声、そして経験から、スナイパーである彼女が、私たちを簡単に発見する恐れがある。
姿勢を低くしながら、必死に走る私たち。彼女がまだ死角に潜んでくれていることを願いつつね。もし見られていたら、移動の意味がない。
移った先は、解体中の廃車の陰だ。それは昨日の軽トラで、今後は発電機兼物置として活躍するため、畑の脇に置かれていた。燃料タンクは危ないけど、一時的な場所としてガマンするしかない。また移動すればいい話だ。
そして、体勢を整え、ライフルのスコープを再び覗く私。どうやら、私たちはまだ発見されていないらしい。もしされていたら、すでに狙撃されているはずだからね……。
あのスナイパーは、依然として姿を見せない。ベランダのどこかで警戒中なのか、マンションから退却中なのかはわからない。もし後者なら、私の失敗が原因だ。
思いがけない反撃に、あの高山さんが恐れをなして、私たちへの攻撃を諦めるとは思えない。間違いなく、これからも襲撃を繰り返し、私たちを疲弊させていく。
この敷地内だけじゃなく、収集活動で外出する際も危険だ。待ち伏せに遭い、惨たらしく殺されてる人々……。
そんな悪い展開を思い浮かべながら、スナイパーが再び現れるのを強く願った。今のところ、あのシーツの縁すら見えてくれない。
「うーん、逃げられたかな?」
坂本君の余計な呟きが聞こえた。
ああ、勘弁してよ。彼が抱く予想は、悪いものに限って的中してしまう……。