正常な世界にて
ところが、リビングに坂本君の姿はない。坂本ママもだ。キッチンに目をやると、カウンターに置き手紙が目立つように置いてあった。
『ぐっすり眠ってるから、先に出かけるね。敷地内にいるはずだから見つけて。朝食と薬を忘れずに! 坂本ママより』
置き手紙にはそう書かれていた。テーブルには、ラップがけされたゆで卵とオレンジジュースが置かれている。
うーん、これは恥ずかしい。二日連続で私は寝坊してしまったわけなのだから。しかも、昨夜の話があってからのコレだ……。恥ずかしさと罪悪感に襲われる私。
私はテーブルに向かい、朝食と薬の服用を済ませることにした。こういう時は、失敗を連鎖させてしまわないよう、淡々と物事を済ませるのが賢明なのだ。
ゆで卵を塩をかけて食べる。ほのかな温かさが、寝坊で凹む私の心を少しだけ回復させてくれた。卵は栄養満点だから、身体的にも良い流れをもたらしてくれるに違いない。
ゆで卵を食べた後、いつもの薬をオレンジジュースで飲み込んだ。本当は水で飲むべきだけど、たいした違いはないだろう。薬を飲み終え、手持ち無沙汰になった私の手は、半分自然な調子で、テレビのリモコンを握る。
テレビの電源を入れて数秒後、うるさいノイズと共に砂嵐が画面に映し出される。おとといのリセット宣言直後のままだ。もしかしたら、ひょっとしたらという僅かな期待は抱いていたけど、やはり現実は厳しい坂道を、ただ転がり続けているようだね。
気を取り直して、ラジオを点ける私。昨夜の時点で、同じ録音音声をひたすら繰り返すプレーヤーと化していた事は、もちろん覚えている。だけど、そんな内容にも、多少の変化が加えられているかもしれない。例えば、話すスピードが落ち着いた感じになったとかね。
……しかし、そんな期待も虚しく消え失せた。ラジオをチューニングしてみたものの、単調で静かなノイズしか聴こえてこない。あの耳に残りそうな、エンドレスの録音音声でさえ、もう耳にできないのだ。ひたすら流れ続けるノイズが、状況の悪化を残酷に告げてくる。
期待こそしてなかったけど、スマホも圏外のままで、ネットももちろん使えないままだ。悪化する状況に、深いため息をつかずにはいられない。これで何度目だろう……。
そんな時、いきなり家のチャイムが鳴る。突然響いた音に、私は飛び上がるように驚いてしまった。坂本君がこの場にいなかったことは、貴重な幸運と捉えよう。