正常な世界にて
「もうすぐだよ。大丈夫、燃えてないみたい」
助手席の坂本君が言った。窓の外を見ると、見慣れた建物がいくつも見え、自宅マンションもしっかり見えた。
坂本君の言う通り、自宅のあるマンションは煙1本立ってない。廊下の蛍光灯がいつも通りに、無機質な白い光を放っていた。そして、自宅の部屋にも、ちゃんと明かりが点いていた。両親は在宅らしい。
こんな緊急事態に夜遊びしていた形なので、両親は私をかなり怒るだろうね……。初めてのビンタを喰らってもおかしくない。さて、どう言い訳したものか……。
信憑性のある言い訳を思いつくよりも前に、車はエントランスの前に止まった。近くには、配達中らしき宅配便のトラックも止まっていた。こんな時にも御苦労様だね。
「私がご両親に説明しようかしら?」
「いや、ボクが行くよ。母さんは車で待ってて」
坂本君が自宅まで送ってくれることになった。余計なことを喋っちゃいそうな心配はあるけど、私一人よりかはうまくごまかせそうだ。
ここで停電したらマズいなと思いつつ、エレベーターに乘った私たち。いつもの習慣だからね。停電したら階段を使うことになるなと思いつつ、エレベーターがいつも通り上昇していくのを見守る。
「は?」
つい砕けた反応をしてしまった私。
なにしろ、上昇中に途中の階で、とんでもない光景を見てしまったからだ……。
ここのエレベーターの扉は、防犯のため、エレベーター側もフロア側も窓がついている。だから、上昇中に途中のフロアの廊下を見通すことができるのだ。普段はときどき、エレベーター待ちの人や掃除中の管理人を見かける。しかし、そのとき見かけたのは、廊下でうつ伏せに倒れた人の姿だった……。上昇中に見た一瞬だけど、床には血が流れていた。倒れた人は、ここ数時間で何度も見かけているけど、自宅にかなり近い分、衝撃的な瞬間だった。
「……夫婦喧嘩かもしれないよ」
坂本君が言った。だけどそれは、気休めの言葉に過ぎず、私の不安バロメーターの急上昇は続く。
自宅があるフロアの廊下に、倒れた人の姿は無かった。それでも私の不安は和らがない。ドアが開き終わらないうちに、私はエレベーターから飛び出した。電車の駆けこみ乗車の逆バージョンだ。