正常な世界にて
私と坂本君は、精神科エリアの薬品保管室で集めた薬を、静かに持ち運んできた。人を死なせてしまった直後だから、笑顔で無邪気に興奮しながらできることじゃない……。
集めた薬の量は、服のポケットや両手に抱えられる分だ。私は2種類の薬を飲んでいるから、半年分ぐらいの量はなんとか持てる。だけど、坂本君はママが飲む分もあり、持ち運び辛そうにしていた。それがよっぽど不快だったようで、車のトランクへ詰めこむ時は乱暴にやっていた。私の薬は後部座席だからいいけど、あんな乱暴な置き方なので、移動中にトランク内でグチャグチャに散らばってしまうだろうね……。
「あそこでも火事が起きてるけど、この辺はまだ平和なほうだね」
坂本君が指差したほうに、燃え盛る高層マンションがあった。立ち上がる炎が、夜空で赤く映えている。
栄と比べるとはるかに少ないけど、住宅地が多いこの辺りでも、チラホラと火事を見かける。たいていは消防車が1台も活動しておらず、住民や野次馬が火事を見守っていた。また、一酸化炭素中毒にやられたと思われる人が、路上に寝転がっている。
「ウチが心配……」
思わず独り言を呟いた私。スマホも固定電話もダメになっている以上、自宅マンションに戻るまでは、家や家族の無事は確かめられない。もし火事が起きていたら、こんな世の中では絶望しかない……。カーラジオを聞いた限りだと、避難所も危なそうだしね。
運転席の割れた窓から流れこんでくる煙の焦げ臭さが、私の焦る気持ちを刺激してきた……。
「急いでるからね」
坂本ママは、私の焦りを和らげようとそう言ってくれた。彼女は、アクセルを踏みこみ、黄色信号の交差点を勢いよく通過する。
それぐらいのワイルドな運転は、名古屋ではお馴染みなので、私はたいして驚かない。それに、名大病院へ向かう途中の酷い道路状況と比較すると、はるかに平和的だ。スピード違反はともかく、信号や車線は守られている。普段と変わらない程度にだけどね……。
しかし、この辺りの道路状況も、じきに悪化してしまうだろう。悪人が勝手に検問を始めたり、悲惨な交通事故が起きてしまえば、一気に道路はマヒしてしまう。そうなれば、物流の悪化が起き、略奪が余計に起きやすくなるはずだ……。
7年前の東日本大震災でも、被災地で略奪が起きていたらしい。金品を狙う悪人は論外として、生きるための食糧などを頂くのは仕方がないことだと、今は思える。
ほぼ間違いなく、さっき薬を頂いたように、生きるために必要な物をまた頂くことになるに違いない。
あくまで生きるためだ。そう自分に強く言い聞かせる。自分の行動に自信を持つんだ。