正常な世界にて
それから1分も経たないうちに、斧男は横に寝転ぶ形となった。刃こぼれが目立つ消防斧は、右手から離れ、堅い床に落ちてガチャンと鳴る。坂本君は素早く動き、それを部屋の隅へ蹴飛ばした。さすが、サッカーをやってるだけあって、見事な蹴りだね。
「…………」
寝転んだ斧男は、目を閉じて静かになった。うるさいイビキをかくこともなく、完全な沈黙だ。
「鎮静剤が効いてるうちに、さっさと持っていこう」
坂本君がそっと言う。起きてまた暴れ出したら嫌だもんね……。必要な薬をさっさと持ち出していかないと。こんなところとはオサラバだ。
私や坂本君が飲んでいる薬の、コンサータとストラテラはすぐに用意できた。なぜなら、鎮静剤と注射器を探し回っていた際に見かけていたのだ。いつも飲んでる薬の名前が目に入った途端、数秒間動きが止まっちゃったのは内緒だ……。ADHDの性なので、彼も止まっちゃっていたかもしれない。
「3か月分ぐらい持ってく?」
「いやいや、最低でも1年分!」
ええ? 普段でも1ヶ月分ぐらいしか受け取ってない……。
「さっき言ったじゃん。こんな状況だと、薬が不足するってさ」
彼はそう言うと、ズボンのポケットすべてに、薬をギュウギュウ詰め込んでいく。ポケットに入らない分は、堂々と両手に抱えていくつもりらしい……。
どう見ても略奪だけど、今はそれを議論してる余裕は無い。薬をこぼしながら、斧男から走って逃げる展開はゴメンだからね……。
「じゃあな。死ぬまでおとなしく暮らせよ」
薬を抱えて部屋から出る際、坂本君はそう吐き捨てた。唾が倒れた斧男の髪につく……。いくら暴力的で危険なヤツだったとはいえ、ほんの少しだけ可哀想に思えた。なので、私はあえて何もしない。
「ん? コイツ、息してなくない?」
足のつま先で、ドアを目一杯開いた後、坂本君が言った。冗談ではなく、真剣な口調だ。
私は思わず、危険なヤツだったことを忘れ、斧男のすぐ近くまで近づいて、耳をすませた。……確かに、イビキどころか、呼吸を全然していない! 抱えた薬を床に置き、横に寝転ぶ斧男を仰向けの体勢にする。
「危ないって!」
坂本君の注意に脇目もふらず、私は斧男の左胸に手を置いた。よく考えると、極めて危険な行為だね。息を止めて死んだフリをしている可能性もあるから……。