正常な世界にて
薬品保管室内は、ガラス窓付きの棚が整然と並べてある。この部屋自体にロックがあるためか、棚の鍵は開いたままだった。医療用の覚醒剤もあるはずなのに不用心だね。今はその不用心に感謝しなきゃいけない。
「あった! あった!」
喜びの声を思わずあげた坂本君。彼は、ガラス窓が割れそうな勢いで、棚の戸を思い切り開ける。そして、中から鎮静剤が詰まった小瓶を、両手一杯に取り出した。1瓶だけで十分そうだけど、急いでいたから、たくさん取っちゃったんだろうね……。
「注射器を知らない!?」
私が知るわけない。今度は注射器探しだね。
「よくもやりやがったな!!」
ドアの裂け目の向こうに、怒りのゲージが最大限に達した斧男が見えた。消火剤が肌にしみたらしく、顔は真っ赤に腫れている……。 斧男は、ドア破壊を再開した。最大限の怒りを糧に、その勢いは笑っちゃうぐらい強くなっている。あと少し破壊されれば、裂け目から出た腕が、内鍵を解除するだろう。この薬品保管室に、窓や他のドアは無いから、絶望的な状況に陥る。
私は危機感を糧に、薬品保管室内をバタバタと走り回る。坂本君は、両手に鎮静剤の小瓶を抱えているからね。その甲斐があり、注射器はすぐ見つかった。もう腕が通りそうな大きさの裂け目ができたドアの、すぐ近くの棚にしまわれていたのだ。
「でかした!」
坂本君は、その棚から注射器を取り出す。急いで無理したせいで、鎮静剤の小瓶1つが、床に落ちて割れた……。
「そっちに行くからな! 逃げるなよ!」
坂本君が注射器に鎮静剤をセットしている時、斧男がドアの裂け目から手を伸ばし、内鍵を開けようとしていた。
「入ってこないで!」
私は恐怖心に駆られ、出てきている左手を蹴った。自分でも驚くぐらい、アグレッシブな行動だ。
しかし、斧男は少しも痛がる様子を見せない。よく見ると、裂け目の尖ったフチにやられ、男の腕には傷ができていた。ちょっとした痛みなら平気らしい。ここでも、薬の力に頼るしかなさそうだね……。
「下がれ!」
これは坂本君の発言だ。主語が無いので、ドアの内鍵をいじる斧男に対して言ったのかと思ったけど、私に対してらしい。私は坂本君の背後に回る。
彼の右手には鎮静剤入りの注射器が握られ、左手には予備の鎮静剤が2瓶握られている。大人一人分の用量を調べている余裕は無かった。とりあえず、斧男に打ちまくるしかない。
斧男は、伸ばした左手で内鍵をうまく解除すると、そのまま右手でドアを開け放った。裂け目の尖ったフチで、男の左手に新たな切り傷ができたけど、痛みを訴える様子は微塵も無い……。