正常な世界にて
「おいやめろ!」
当然危険を察した大柄患者は、そう叫ぶ。
「いい加減にしろよ!」
彼の叫びは、元チェーンソー男にはまったく届いていない……。いや、今はもう『斧男』と言ったほうが正確か。
私が顔を覆う暇も無く、消防斧は振り下ろされた……。磨かれた刃が、大柄患者の顔面を叩き割る。皿が割れるような、バリィンという音が鳴った。廊下の床に、噴き出た鮮血が飛び散る。
断末魔1つもあげずに、彼は死んでいた。顔は血で染まり切っているので、表情は見えないけど、束の間の激痛に顔を歪ませたに違いない……。
『触法患者の法令違反を確認しました。対象の拘束もしくは無力化が確認されるまで、このエリアは閉鎖されます。良い一日を』
突然、廊下のスピーカーから、そんな自動音声が流れた……。カメラかセンサーか何かがあって、斧男が大柄患者を殺すところを確認したんだろう。
ガチャンという音が鳴った。アナウンス通りに、鉄格子のロックが再びかかったのだ。出る準備か何かで逃げ損ねた患者たちが、鉄格子の前で文句を垂れている。
「ふぅ」
斧男は、一仕事終えたようなため息をついた……。彼の服は、血ですっかり赤く汚れている。
「覚悟しろよ!」
斧男は、狙いを再び私たちへ向けた。殺気オンリーの雰囲気だ。私たちの命を絶つことを、第一目標のタスクに掲げていることは間違いない……。そのために、邪魔な大柄患者を殺したぐらいだしね。
死んだ大柄患者の顔面から、消防斧が引き抜かれる。その途端に、鮮血がまた大きく飛び散り、天井にも赤い点々が走った。
坂本君が私の手を強く引っ張り、廊下の奥へ向けて駆け出す。そんなに引っ張らなくても、走るよ走る。全速力で走るよ私は!
「待て!」
斧男も負けじと走ってくる。怖い怖い! 実況動画で観るホラーゲームのワンシーンみたいだね!
少し走ると、廊下の奥が見えてきて、そこに薬品保管室のドアがあった。鉄格子みたいにロックされていないこと願う。
坂本君がドアを開く。幸運なことにロックされていなかったのだ。私たちは、プールに飛びこむように、部屋の中へ駆けこんだ。ようやく幸運が続いてくれたようで、ドアには内鍵も設けられていた。私が指摘するまでもなく、坂本君はその内鍵を力をこめて締める。