正常な世界にて
何人かの患者からの視線を感じつつも、私たちは廊下をスタスタと歩くことができた。ふと壁を見ると、『薬品保管室→ ロック確認を忘れずに!』と書かれた紙が貼られてあった。どうやら、この廊下の先にあるみたいだね。さっさと薬を自己処方して、坂本ママの元へ戻らないと……。
ところが、廊下の途中で前を進む坂本君の歩みが止まった。彼の陰で見えないけど、一人の患者が目の前に立ち塞がっている。さっきみたいに、すぐ脇を通り過ぎればいいのに、彼はそうしない。
「どうしたの?」
「…………」
彼は無言だったけど、さらに面倒な事が起きようとしている気配は感じ取れた……。頭を右に傾け、彼の前に立ち塞がる患者が、どんなヤバい人間なのかを見てみる。
「…………」
その患者が誰なのかがわかった途端、私の心身は凍りつく……。全身がドライアイスの粉に覆い包まれるような寒気だ。
けっこう以前の話だけど、私と坂本君を追いかけたあげく、とある駅前で派手な殺人事件を起こした男だ。アルミホイルで身を守り、チェーンソーで武装していたこの男は、ここで治療中の身らしい。いわゆる措置入院というやつだろうか?
「んん? んん?」
とろんとした表情と口調で、私と坂本君を見てくる。医者に鎮静剤を投与されて、おとなしくなっているようだ。
「おいおい、今日はチェーンソーを持ってないのか?」
坂本君が挑発する。確かに今の彼は、ただの男だ。清潔そうな白い服を着て、武器は何も持っていない。
「ジャマだからどけよ!」
坂本君は彼を、横の壁へ勢いよくどけた。その拍子で、彼は壁に正面からぶつかってしまう……。鼻血が出てはいないけど、顔がけっこう痛そうだ。男は痛みにもだえつつ、私と坂本君を強く睨みつけ、
「……思い出したぞ!!」
と叫んだ……。ぶつかったショックで、鎮静剤の効果が消滅してしまったかの如くだった。彼の顔は憤怒という感じだ。以前殺し損ねた事に、たった今の坂本君の無礼が加わったらしい……。坂本君は、ホントに余計なことをしでかしてくれる。
「あの時はよくも苦しめてくれたな!」
やれやれ、嫌な展開へ転がっていく……。しかし、治療は全然進んでいないようだね。
「森村、さっさと行こう」
早歩きを始めた坂本君が、私の手を強く引いた。
「自由だ! 自由の身だ!」
「今すぐココを出よう! こんな所とはオサラバだ!」
背後の離れた所で、患者が歓声をあげている。自由を喜ぶ雄叫びというわけだけど、安っぽいセリフだね。