正常な世界にて
……ところが坂本君は、トイレの行列に並ぶのでなく、近くの階段のほうへ向かった。違うフロアのトイレを探すのかな?
「他のトイレも行列かな?」
さりげなくそう言うと、彼は驚いた表情で振り向いた。どうやら、私がついてきた事に、気づいていなかったみたいだね。彼の驚きようを見て、彼がやましい事を始めようとわかった……。
「トイレに行くんじゃないの?」
率直に尋ねると、彼は口の前で人差し指を立てた。やっぱり、やましい事なんだね……。そして、彼はこっそり手招きする。階段の踊り場の角で、教えてくれるみたいだ。
階段にも、患者や家族がいた。彼らはみんな、疲れ切った表情で、静かに時間を過ごしている。なので、階段を上がる私と坂本君には、全然気に留めない。
「薬を取りに行くところなんだよ」
近くには誰もいない踊り場で、坂本君が言った。薬? 彼は確か、ここには通院していないはずだけど?
「こんな状況だと、ボクや森村が飲む薬まで不足してしまうだろ? もし薬の製造ができたとしても貴重品で、自立支援なんてもちろん効かない。それじゃあ、薬が買えなくなっちゃう」
確かに、リセットのせいで、医療関係の支援は消えた上、薬などの医療品の製造も危機的状況に陥っているはずだ。坂本ママが応急措置をなかなか受けられなかった原因の1つもそうだった。
「これから病院の薬品保管室へ行って、ボクらの薬をいただくんだよ」
しかし、続きの言葉を聞き、私は唖然とした……。略奪自体はもう経験済みとはいえ、それも立派な略奪だからね。法律は事実上機能していないけど、犯罪に手を染める事に嫌悪感は拭えない。
「森村、良い行ないじゃないのはわかってるよ? でもね、苦しまずに生きていくためには、こうするしか道が無いんだ」
慎重な口調で気まずそうに、彼はそう言った。私の顔に浮かぶ嫌悪感に気づいたみたいだね。
「……今月の自立支援は、もう上限いってないか?」
彼が尋ねてきた。彼も私も、自立支援医療制度を使い、医療費の自己負担額を抑えている。自己負担額には、月ごとの上限があるので、彼はそのことを尋ねたのだ。
私は、今月分はもう上限に達していることに気づいた。そういえば、今月一日の学校帰りに、診察を受け、薬を貰っていた。つまり、今月はもう医療費を自分が払う必要が無く、無料で薬を受け取れるというわけなのだ。
「上限いってる」
「そうだろ? それなら構わないだろ?」
確かに、無料の物なら泥棒だとはいえないね。