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正常な世界にて

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「すいません!」
坂本君が呼びかけると、医者は面倒臭そうに振り返った。治療中に付いた血で、薄い緑色の白衣は赤く染まりつつある。ここが病院じゃなければ悲鳴をあげていたかもね……。
「整理券は? あるなら、一番向こうで寝転がってて」
医者はそれだけ言うと、目の前の仕事に戻る。もう何度も同じ事を言っている口調だった。坂本君は、周囲を伺った後で、
「整理券は無いけど、これはあるよ?」
坂本君は小声でそう言った。彼の手には、健康保険証で隠す形で、数枚の一万円札が握られている。ありきたりな買収だね……。しかし今は、格差社会を嘆く場合じゃない。
「悪いけどね。今はもう、クレジットカードも小切手も現金も使えなくなってるんだ。下手すれば、その保険証だって使えないかもしれない。せめて価値のある物を持ってきなよ?」
医者はそう言い放つと、再び仕事に戻る。坂本君は、またもや一蹴されたわけだ……。まさに、二度あることは三度あるだね。

 だけど、坂本君は諦めなかった。彼は母親のカバンから、何かを取り出す。
「……それじゃあ、こういう物はどうかな?」
彼が医者の眼前に突き出したのは、いかにも高級品な雰囲気が漂う洋酒だった。細かい刻印が入っている酒ビンだ。坂本ママの店か、略奪品だね。
「ほう。これは結構高いウォッカじゃないか」
「ええ、そうですよ。海外の酒は当分入ってこないと思いますが、これでどうですか?」
「度数も高い。よし、いいだろう。お母さんを、そこに寝かせて」
医者は、この取引に同意してくれたらしい。現金は使えなくても、現物はこうして使えるんだね。露骨な賄賂だけど、江戸時代の悪徳商人みたいに、私腹を肥やすわけじゃない。

 高級ウォッカを受け取った医者は、さっそくそれを開栓した。すぐ目の前に、ケガをした坂本ママがいるのに……。ケガ人よりも飲酒のほうが大事なのか? 今が平時なら、クレームが殺到するだろうね!
「しみるよ?」
いや、私の勘違いだった……。医者は、そのウォッカを味わうわけじゃなくて、消毒薬の代わりとして使い始めたのだ。高いアルコール度数を誇るウォッカが染みこんだガーゼが、坂本ママの傷口に押し当てられる。顔を歪ませて、激痛に耐える彼女。
 ……私は、自分の勘違いを恥じた。坂本君のほうを見ると、贈賄側の彼も同様らしい。
 医者は、傷口の消毒が終わると、止血剤を慎重に開封した。きっと、かなり残り少なくなっているんだね……。この状況だと、あと少し遅ければ、現物の賄賂も通用しなくなっていたに違いない……。

作品名:正常な世界にて 作家名:やまさん