正常な世界にて
「ボウズの遺体を、その場へ置いていく形になったが、私は逃げたよ。それ以上、殺気と冷たさと鋭さが混じった視線に晒され続けるのはゴメンだった。耐えられなくてな……」
人生経験が豊富そうな、このベテラン刑事でも、精神的に参ることはあるんだね……。小池らへんの古い世代だと、精神論重視の時代に生きてきたから、人前では弱音を吐かないと思ってた。
「署にこのまま向かうか、本部に戻るかで迷いつつ、栄をうろついていたよ。……栄はどこも、酷い有り様だった。松坂屋や三越の辺りは、正月の初売りみたいな大騒ぎで、マネキンまで略奪されていったよ」
私はつい思わず、その略奪に参加したくなった……。お小遣いだけじゃ買えない服やアクセサリーが、あそこにはたくさん揃っていたからね。もう品切れになってそうだけど。
「略奪目的じゃないが、大騒ぎの松坂屋に入った。人混みにまみれれば、あの連中から追跡されていたとしても、自然に撒けるからな。……そこで、アイツを見つけたんだ。酒を何本も抱えているところをな!」
小池は、坂本君を指さした。
「母さんから買い物を頼まれたんだよ。アンタがさっき飲んだ酒もそうだけど?」
坂本君が言い返した。
「じゃあ、レシートを見せて?」
これは坂本ママだ。しかし、坂本君は聞かなかったフリをした……。つまり、正式な買い物をしたわけじゃなくて、略奪をしたというわけだね……。とはいえ、ついさっき心の中で、そんな略奪に参加したいと思ってしまったから、彼を非難できない……。
「そこでアイツと話をしてな。ここで一泊させてもらうことになった。……まあ、悪くない取引だったよ」
「取引!? どんな取引?」
思わず反射的に尋ねた私。悪い癖だね。
「悪いが、それは機密情報だ。どうしても知りたければ、アイツから聞きな。……まあ、じきにわかる事だがな」
小池はそう返答したものの、気になるね。
「森村にとっても悪くない取引だよ。それにあと、酒を運ぶのを手伝ってもらったこともあるからね。森村もここに泊まって行けよ。学割と恋人割でタダにしとく」
「やっぱり、お前たちデキてたんだな。まったく、今の若い子たちは、変わった恋愛をするもんだ」
小池が、ニヤニヤ笑いながら言った。彼の笑顔を見たのは、その時が初めてだ。堅物で怖い初老刑事だと思っていたけど、笑顔を浮かべることもできたんだね。
「私の若い頃とも違いますよ。時代の流れというのは、良いものも悪いものも、同じように流れていくものなんですね」
坂本ママは、しみじみとした穏やかな笑顔だ。今のところ、私を坂本君の彼女として、OKを出してくれているみたいだね。