正常な世界にて
「ありがとう」
初老刑事は言った。心からの言葉だと感じた。
「それから、リセットが宣言されたのは、寝耳に水だった。正午に総理が、何かを発表するのは聞いてたが、まさか「日本やめます」だからな。根回し済みの課長も驚いていたぐらいだから、かなりの極秘事項だったんだろう」
『こちら第二チーム! 大津通を退却中! 第三チームの桜通大津交差点にて、体勢を立て直します、どうぞ!』
『こちら本部です! 第三チームとは連絡が取れません! 呼びかけに応じません! そちらからはわかりますか!?』
『第一チームだ! 囲まれて身動きが取れない! 増援を求む! 今すぐ増援を求む!』
いきなり無線音声が、店内に鳴り響いた。
「おっと、失礼」
坂本君がカウンターの端で、小型無線機を操作していた。操作がわからず、最大音量で流れてしまったみたいだね。
「おい、壊すなよ! こういう時に、警察無線は貴重だ!」
刑事が呆れ顔で注意した。刑事の持ち物らしい。
「リセット宣言があった正午を境に、東京と連絡が取れなくなった。警視庁ともな。おかげで、ウチは大混乱さ。なぜかすぐに鳴らなくなったが、市民からの電話が殺到したからな。とはいえ、私たちも答えようがなかった」
刑事は肩をすくめた。電話応対でそうとう疲れたんだろう。
「ピタリと電話が鳴らなくなったから、それはそれで大混乱さ。気がつけば、ケータイもネットも使えなくなっていたからな。原因の把握もできない。幸い、警察とかの無線は使えたが、いつもより時間と手間がかかる……。あまりに面倒だから、県警本部まで出向いたぐらいさ」
坂本君は、警察無線にかじりつき、飛び交う無線に耳を傾けていた。音量をかなり低くしてくれたので、今は耳障りじゃない。何を聞いているのかが、つい気になるけどね。
「県警本部も大混乱さ。……そして、私たちがてんやわんやしている時に、あの名古屋市長が本部にやって来て、名古屋を独立国家にしようと言い始めた。とりあえずの名前までもう決めたらしく、『名古屋自治政府』だと言ってたな」
テレビでよく見かけた名古屋市長の顔を思い出した私。確かに、あの市長なら、言い出しかねないね……。まあ、統制のためとして、悪い対応ではないけどさ。
「指揮系統とかの疑問はあったが、その場にいたほとんどが、それに賛同したさ。『溺れる者は藁をもつかむ』というやつだな」
「でも、うまくいってないみたいですね」
私はそう言い、出入口のドアを指さす。刑事はため息をついた。
そんな時に坂本ママが、刑事の空のグラスに、そっと氷とウィスキーを入れる。話の途中だから、あまり飲ませないでほしいなと思った。とはいえ、商売だからね。