正常な世界にて
しかし間一髪で、高山さんが金づちを掴んだ。片手でガッチリと掴む姿は勇ましい。
「チクショウ!! なめやがって!!」
子供である高校生に負けてたまるもんかと、無職男は金づちから彼女の手を引き離しにかかる。
「諦め悪いね!」
幸い無職男は、下敷き状態で腕力が入らないらしい。それでも、彼女は力強く見えた。
「このガキ!! 俺には失うものなんて無いんだぞ!! やろうと思えば、いつでも襲えるぞ!! 夜道に気をつけるんだな!?」
負け惜しみのセリフを、早くも口走る無職男……。ここで抗うことを諦めたらしい。なんて情けない男だろう……。
「あら、そう?」
高山さんはそんな脅しなど、少しも怖くないという様子だった。強がりでもなさそう。
「それなら楽しみにしてるね! けれど、返り討ちになるだけだよ?」
不気味な怖さのある口調だった……。
ぞっとした様子の無職男。私まで少しぞぞっときた。
「や、やれるもんならやってみやがれ! もし俺を殺せても、オマエは殺人犯だ! どうせ過剰防衛扱いだろうよ!」
無職男は言い返す。おそらく、男のプライドからの抵抗だろう。強がり丸出しだ……。
すると高山さんは、無職男の胸ぐらを片手で掴み上げる。そして、もう片方の手でスカートのポケットから、小さな長方形状の物を取り出した。
……それは緑色の手帳だった。大きさや形は似てるけど、生徒手帳ではない。気になり、そっと覗きこむ私。
「これが何かわかる?」
目の前の無職男に問いかける彼女。
ヤツの視線は、彼女から手帳のほうへ向く。その途端、男の表情はピタッと凍りついた。
「障害者手帳! それも精神障害者のか?」
彼女が手にしているのは例の『精神障害者手帳』だ……。実際に見たのは、それが初めてのこと。
「そう、一級のね。ワタシは『精神病質』で、俗にいうサイコパスという人間なの。……これでワタシが言いたいことは、きちんとわかったよね?」
口元に笑みが一瞬浮かんで消える。
「あ、ああ……」
男は言葉を失っていた。何かを失い、平静に戻った感じ。
……きっと、彼女が言いたいのは、「自分に責任能力は無いそうで、先手必勝でお前を殺したとしても、人並みに面倒な展開にはならないんだよ」だろう。物騒だけど、こんな男には当然のメッセージといえる。
「気をつけなきゃいけないのは、そっちだったみたいよね?」
ニコリと微笑む高山さん……。世間一般の微笑み方じゃない。
「…………」
ヤツは無言で震えながら、天井を仰いでいる。高山さんが体から下りた後も、仰向けのまま醜態を晒す。
どうやら、酒酔いのほうは醒めたらしい。それに、夢もしくは現実からも……。