正常な世界にて
エスカレーターで地下鉄へ下りているときも、緊張はまだ解けなかった。背後が気になり、チラチラと何度も振り向いた。たまたま、エスカレーターの上に、ミニスカート姿の女性(私よりもブスだと思う)がいて、坂本君の視線を気にしていた……。
人混みの中で、地下鉄のコンコースを歩いていると、ようやく緊張が解けてきた。自然と繰り返される深呼吸。ずっと素潜りしていたような荒い息遣いだ。
「少し休ませて」
坂本君はそう言うと、自販機コーナーのベンチに腰を下ろす。長引いた緊張感で疲れ果てているらしく、深々と呼吸していた。同じような私も休ませてもらうよ。水筒は空のはずだから、自販機でいろはすでも買おっと。
水で喉を潤しつつ、坂本君の横に座った。コンコースを行き交う人々の中に、怪しい人はいない。とりあえず助かったみたいだね。
「……なぁ、森村」
坂本君は呼吸が落ち着くと、声をかけてきた。真剣な口調だけど、疲労感は隠せていない。
「高山のことは諦めよう!」
彼は強い口調でそう言った……。これ以上の面倒事に巻き込まれるのは、絶対にごめんだという様子だ。
「そ、そんな……。ううっ……」
彼に反論しようとしたものの、言葉が全然思い浮かばない。というか、まるで声を発することができなくなったみたいだ。
私の中の生存本能が、彼への反論を防いでいるのかな? もしくは、これは実際の本音なのかもしれない。高山さんのことを大切に思いつつ、心のどこかで彼女から離れたいと思っているのだ。この感覚も、二重人格の定義に含まれそうだ。
「もう危険だけど、これ以上はさらに危険だ。森村さんを守りたい気持ちが、無くなったわけじゃないよ。だけど、その気持ちがいくら強いものでも、飛んでくる銃弾を弾き返せないだろ?」
「わ、私一人でも……」
別に坂本君抜きでも、これは続けられることだ。とはいえ、今まで巻き込まれた騒動から思い浮かぶ恐怖心が、私の自立を妨害してくる。おまけに今は、ついさっき撃ち殺されかけた状況なのだから……。
「いやいや、おまえ一人なんて絶対ダメだよ! 絶対許さないよ!」
おまえ呼びは、これがたぶん初めてだ。なんかドキッと感じるものがあったけど、今は恋愛を楽しめる状況ではないからね……。