ファースト・ノート 1~3
要はレンタルCD店でのアルバイトの日だったので、駅前の公園で落ち合うことになっている。玄関でハイカットスニーカーに足をいれた。ダイニングテーブルをふりかえる。
湊人のためにこしらえた弁当は、この日も必要なくなってしまった。
駅前の公園は人通りが多くにぎやかだった。淡いネオンがともる街の中をみな忙しそうに行き来する。疲れた顔をしたサラリーマン、ハンドバックを片手に足早に歩く中年の女性、笑い声の絶えない大学生の集団。
湊人も今頃、友人たちとどこかで笑いあっているのだろうか。
一昨日の夜から高村家に帰っていない。書き置きもなく、身の回りの物だけが忽然と姿を消していた。携帯電話はつながらない。事故にでもあってはいないかと、心配は尽きなかった。何よりも自宅に戻っていないことを願うばかりだった。
公園の中央入り口に近い噴水の前に立っていると、ギターケースを提げて歩く要の姿を見つけた。キャリーにキーボードをくくりつけている。
噴水の前に楽器を置くと、アンプを取りに行くためにもう一度車に戻った。 その間に初音はキーボード用のスタンドを組み立てる。
要が戻ってくると、ローランド社の巨大なキーボードにアンプと発電機をつないだ。
ギターの弦をかき鳴らすと、数人の男女が集まってきた。
十七、八の少女たちが気さくな感じで話しかけてくる。要が笑顔で答える。
「じゃあ軽く一曲」
要が軽快なテンポでオリジナル曲を弾き始めたとき、客は十名ほど集まっていた。
一曲目は短く明るい曲だった。
要の歌声はマイクを通すよりも生のほうが迫力がある。腹の底から押し出される歌声は複雑な重なりを持っていて、アンプでは再現できない深みを含んでいる。
観客が手を叩き、微笑んでくれる分だけ、要は最高の笑顔を惜しみなくふりまく。
ストライプ模様のシャツを着た要がふりかえり、初音に微笑みかける。
「助っ人のはっちゃんです。拍手!」
ギターを鳴らして観客に呼びかけると、倍に増えたギャラリーから拍手が起こった。
骨張ったあごのライン、筋肉の厚みを想起させる肩。まくり上げたシャツのそでからのびる腕。手首が軽やかに上下する。高音域は裏声の美しいビブラートへと姿を変えていく。
ピアノのソロにさしかかったとき、視界の端に晃太郎の姿を見た。観客から少し離れたところで腕を組んでこちらの様子をうかがっている。
突き刺さるような視線をふりきって、初音は演奏に集中した。
要の楽曲のうち、リリースされているものは全てピアノのアレンジで弾けるようになった。高村家で何度も聞くうちに耳がおぼえてしまい、追加したコードやソロのフレーズを教えてほしいと言われるようになった。アレンジが楽曲に組み込まれ、人前で披露された時は戸惑ったが、演奏の依頼が増えたのも確かなようだった。
要の演奏と観客の熱気がすぐ近いところで織り混ざり、ピアノが加わることで新しい色を持った音楽が生まれる。晃太郎の強烈な眼差しも、五線譜にのる旋律のひとつになる。
恒例の観客を巻きこんだ曲が始まる。ハンドクラップだったりコントだったり、そのときの雰囲気によって様々だが、今回は観客のエピソードから即興で歌を作るようだった。
「さあ、前に出てきてくれる人はいませんかー」
ギャラリーの中に笑みの混じったどよめきが起こる。
「じゃあ、ピアノのお姉さんに選んでもらおうかなあ」
初音は背をのばして額に手をかざし、誰にしようかなという格好を大げさにしてみせた。みな目があう先からそらしてしまう。観客の山のむこうから食い入るような視線を感じた。晃太郎よりもさらにうしろ、木立の合間から――。
生い茂る木々の下に湊人がいた。茶色の髪が外灯の光を浴びて風に揺れている。
逃げることも顔をかくすこともせず、様子をうかがう猫のような目で見つめ返してくる。
曲がエンディングをむかえてライブの前半が終了すると、要の肩をたたいた。
「深町と適当にやってて」
初音は小声でつぶやくと、射られた矢のようにその場から飛び出した。
湊人の姿を見逃さないように観客をかきわけていく。晃太郎がすれ違いざまに初音の腕を取ろうとしたが、「よろしくお願いします」と言い残してふりきった。
要の声が遠ざかっていく。
湊人が身をひるがえし、雑木林の中へと走り去ってゆく。
落ち葉を踏みしめるたびに濃い土のにおいが立ちのぼる。少し走っただけで息が切れ、やわらかい地面に足を取られそうになる。何度も木の根につまずきながらも、目だけはしっかりと見開いていた。数メートル先にデイパックを背負ったうしろ姿がある。
雑木林を抜けて細い通路に出た。残っていた力をふりしぼり、湊人の腕をつかみにいった。彼は体を反転させてかわそうとしたが歩道の段差につまずいて転倒した。
飛びかかるようにして湊人の体におおいかぶさった。
「つっ……つかまえた……」
初音は湊人の腕を強く握ったまま、その場にへたりこんだ。ところが湊人がその手をふりはらい、また林の中へかけこんだ。あわてて立ち上がり、あとを追う。
突如、激しい頭痛が起こってよろめいた。立ち止まって呼吸と整えようとしたが、めまいが起こって立っていられない。こめかみから汗が吹きだしてくる。
目の前に数人の男の影が現れ、あとずさりする初音に近寄ってくる。
激しく打ちつける心臓の音を聞きながら初音は息を飲んだ。何度もまばたきをするが、影が消えない。立ち上がろうとしても足が震えていうことをきかない。息が上がる。男たちの腕が初音に伸びる――
「初音さん、どうしたの」
目の前にいた湊人だった。父親似の低いトーンの声が心を落ち着かせる。
「……何で戻ってきたの」
「なんか……初音さんの様子がおかしかったから」
色白できゃしゃな手首が初音の体を引き上げる。背の低い湊人に寄りかかるようにしてふんばるが、膝に力が入らない。引きずられるようにしてその場を離れた。
来た道を戻る途中で要がかけよってきた。
心配そうな顔つきでのぞきこんでくる。しびれが残る手のひらを握りしめて言った。
「ごめん、湊人の姿を見つけたものだから、つい飛び出しちゃって……」
「晃太郎が場をつないでくれてるから大丈夫だよ」
初音の手をとると背中におぶってくれた。抵抗できなかった。伝わってくる背中のぬくもりが全身の緊張を解いていく。情けないことに涙腺がゆるんでくる。
「なんかあった?」
要は小声で湊人に聞いた。湊人はあとについて歩きながら言った。
「追いかけてきたんだけど、突然動かなくなっちゃって……」
「そうか……」
要の声が背中で響いている。あのときもそうだったらよかったのに――と、考えても仕方のないことが頭に浮かんだ。過去は書きかえられない。初音の過去に要は存在しない。
たったひとりで乗り越えていくしかない、と初音はくちびるをかみしめた。
噴水前の人だかりはさらに膨らんでいた。
輪の中心で、晃太郎が何かに座って軽快なリズムを叩いている。すぐそばに数人のボディパーカッションの集団もいるようだ。
作品名:ファースト・ノート 1~3 作家名:わたなべめぐみ