ファースト・ノート 1~3
古ぼけた木の箱に晃太郎がまたがっている。どうやらカホンを叩いているらしい。ボディパーカッションの集団は胸や足を叩く。観客も一緒になって手を叩く。目に見えない大きな振動が観客たちを乗せて渦巻いている。
要も湊人もいつの間にか自然な笑みを浮かべながら体を叩いている。渦の中心にいるのは晃太郎だ。かがめている体をときどき起こしながらカホンの角や側面を叩く。
ドラムを叩いているときより、ずいぶんとリラックスした表情をしていた。
拍手を浴びながら晃太郎が立ち上がった。要の姿に気づいたのか、ボディパーカッションの集団は晃太郎と握手を交わすと静かに去っていった。
要が頭をかきながら晃太郎の横に立つと、また拍手が起こる。
晃太郎に何かささやく。ふたりが同時に指をさしたのは湊人だった。
湊人はキーボードに見入っていた。要はしきりに手招きする。
初音は湊人の肩をつついた。
「こっちにこいって言ってるみたいだけど」
「なんでオレが」
「さあ。キーボードを弾かせるつもりなんじゃ……」
言い終わらないうちに晃太郎がやってきて湊人の肩をつかんだ。
「おまえ、例の曲を弾けるんだろう?」
「なんだよそれ」
「野外ライブで要と初音がやったアレのことさ」
「あれって……父さんの……?」
湊人が息を飲む。晃太郎の瞳の中で鈍い光が揺らめいている。
「姉貴にかわって弾いてみせな」
「でもオレ、ライブなんかやったことないし」
戸惑っていると、ギターを下げた要がやってきて、「大丈夫、大丈夫」と湊人を引きずっていった。初音は苦笑した。自分が野外ライブに出た時も同じ調子だったなと思った。
要は場の中心に戻り、ジーンズのポケットからブルースハープを取り出して無作為に音を鳴らした。透きとおった音色が背筋に襲いかかる。ギャラリーから歓声が起こる。要が首にセットしたスタンドにブルースハープをつけると、晃太郎がカホンをならした。
生い茂る木の葉がざわめきたち、静観していた噴水が水しぶきを上げる。
湊人はキーボードの鍵盤の上に指をそろえた。長い前髪が風になびく。
要と晃太郎は静止して湊人の様子をうかがっている。彼の突然の登場にざわめいていた観客たちも固唾を飲んで演奏が始まるのを待っている。
湊人は一度手を下ろして深く息を吐いた。初音もつられて小さくため息をつく。ぴんとのびる彼の姿勢が、一帯の空気を張りつめたものへと変えてゆく。
ふたたび鍵盤に両手をそえた。動いたのは右手の中指。Bフラットが響き渡る。
初音の心臓がピアノ内部のハンマーで叩かれたように共鳴する。
続いて和音が鳴る。要の指がゆっくりと同じ響きをはじく。晃太郎のカホンがふたつ音を響かせる。初音が弾くときよりもずっと長い無音の空間が、次にくるとわかっている音色を焦らす。大きな獣の歩みのように、ひとつひとつの音が体の芯を踏みしめていく。
二分音符の微妙な長さ、アクセントの波形、音と音の間合いの取り方、クレッシェンドのかけかた、五本指の力関係。曲を構成するすべての動きが父そのものだった。
違うのは要と晃太郎という従者を伴っていることだ。絶妙な間合いで侵入してくるギターとカホンの音色が、記憶よりずっと生々しく父の演奏を再現する。
湊人の演奏は完璧に構成されていた。迷いのない指使いひとつを見ても相当に弾きこんでいることがわかる。
湊人が弾いているはずの、しかし父そのものの音色が襲いかかってくる。思わず胸の前で腕をくんで体を縮める。鉄柵で覆いかくしている記憶の一部を、十本の指でじかに触られているような心地がした。
演奏を終えた湊人は、湧きおこる歓声と拍手を浴びて微笑んでいた。木立の影から初音を見つめていたときの淀んだ瞳は浄化されていた。蒸気した頬に汗がしたたり落ちる。父ではなく、十六歳の湊人がしっかりとそこに立っていた。
拍手を送りながら、もうこの曲は自分だけのものではないと思うと、目の奥に熱いものがこみあげてきた。先ほどまで立っていたその場所で、湊人の笑顔が輝いていた。
作品名:ファースト・ノート 1~3 作家名:わたなべめぐみ