ファースト・ノート 1~3
初音は卵のパックを取り出して流し台においた。
卵の焼けるいい匂いがし始めると、湊人の表情が緩んでいった。
赤い小さな鍋から味噌汁の湯気が立ち上る。要の恨みまみれになった醜い記憶も、解きほぐされる心地がした。
日が傾き始めた頃、要の車で湊人の自宅に向かった。古い木造アパートの二階にある坂井家には誰もおらず、ふた間の和室に湊人や母親のものと思われる服がかけられていた。
部屋は薄暗く、さしこんだ夕日がささくれた畳を焦がしている。湊人は男性用のジャケットとスラックスを払い落してから、無言で服や本をかき集めた。
高村家に戻ると、玄関の前に腕を組んで立っている晃太郎がいた。
「初音の弟か?」
事もなげにそう言うと、湊人はわずかにたじろいで、「そうだけど」と答えた。
晃太郎は腕をといて、さらに一歩湊人に近づいた。
「失速の原因はこいつか?」
要は二人の様子を盗み見た。初音は言葉を失ったまま立ちつくしている。
湊人が晃太郎の視線をふりきって玄関に向かって歩き出す。
すると晃太郎が背負っていたボディーバッグを前後に回転させて、CDと譜面の束を取り出した。
「頼まれてた音源だ。こっちはドラムの譜面。気になるところがあればすぐ修正する」
無表情のまま手首につけた青いリストバンドの位置を調整する。
受け取ったCDには、要が披露してきた十二曲のタイトルが丁寧な字で書かれていた。
「これ全部、今日のうちに収録してきたのか?」
「それが俺の仕事だからな。明後日またくる」
あっけにとられている要を残して、路上に止めてあった黒のBMWに素早く乗りこんだ。低くうなるエンジン音を轟かせながら、道幅のせまい住宅街から姿を消す。
コピーされた譜面を見た。整った楷書体で書かれたタイトルと、五線譜の上に敷きつめられたドラムの×の記号。無心にドラムを叩く晃太郎の姿がよみがえってくる。使い込まれた二本のスティック、左手首を覆うリストバンド。
その時、視界のはしを何か黒いものが横切った。
青々と生い茂るオシロイバナの葉影から姿を見せたのは、猫だった。
要が幼い頃から、よく野良猫が庭を出入りするのを見ている。居つくとやっかいだからエサはやるなと父には言われていたが、要の孤独を癒してくれる存在でもあった。
初めて見る猫だった。目やにだらけの顔でいかにも野良だという風貌をしている。
要が舌を鳴らした途端、垣根のむこうに姿を消してしまった。
晃太郎から受け取った譜面の束を手の中に丸めこむと、湊人の待つ玄関に向かった。
作品名:ファースト・ノート 1~3 作家名:わたなべめぐみ