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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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ファースト・ノート 1~3

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 覇気のなかった初音の目に色が戻り始める。曲のことを考え始めたらもう引き下がれないプレイヤーの瞳をしていた。

「……わかりました。着替えてくるんで、下で待っててください」

 初音が扉を閉めてロックを外すのを待って、要はすばやくドアを開けた。

「もう敬語は使わないでよ。また使ったら罰金でおごってもらうからね」

 初音の表情がほどけて、喉から笑い声が漏れ出した。

「芽衣菜が言ってたとおり、本当にしつこいのね」
「そうじゃなきゃ弾き語りなんてやってられないよ」
「私の父もそうだった。おかげで私はピアノを弾けるようになったんだけど」

 初音は静かに微笑むと、「先に下りててね」と言って扉を閉めた。初音を待つ間ずっと、要のまわりには優しい残り香が浮遊していた。

 一階の外階段を下りると、植込みの向こう側に赤いキャップをかぶった少年が立っていた。昨夜、ライブのあとに初音に話しかけていたあの少年だった。
昼下がりの日差しを浴びながら、大野家のあたりを見上げている。

 初音は建物から姿を見せるなり、少年にむかってかけ出した。
 少年は逃げようとするそぶりを見せたが、初音が腕をつかむほうが早かった。

「湊人くん……だよね」

 少年が初音の顔を凝視している。
 英字がプリントされた赤いキャップ、黄色いチェックのラグランシャツに黒のタンクトップ、ひざの破れたヒップハングのボトム、ナイキのスニーカー。服も靴も昨夜と同じだ。
 左肩には荷物の重みで落ちそうな青のバックパックを背負っている。

「逃げないでよ。ここにきた訳を聞かせて」

 初音の声が震えている。わずかに力が緩んだのか、ふりきって少年が走りだそうとした。

 要が二の腕をつかんだ。要を睨みあげる一重まぶたの瞳や、シャープな顎の輪郭が、どこか初音に似ていると感じた。
 湊人は両目を見開いて要の手をふりほどこうとした。

「あの曲、なんでおまえが弾くんだよ」

 手の力が抜ける。湊人は痛がりながら腕をふったが、もう逃げ出す気はないようだった。

「弾いていいのは初音さんだけのはずだ。他人のおまえが軽々しく弾くなよ」
「他人の……? おまえ、はっちゃんの親戚か」

 そう言いながら、湊人の顔に無数のあざがあることに気づいた。治りかけているものもあるようだ。もしかすると胴体にもかくしているのかもしれない。

「どうしたんだ、それ」

 そう言うと、要の胸倉をつかんでいた湊人がとっさに顔をそらした。
 初音の手が彼のあざにふれる。

「うちにあがって。話はそれから聞くから」
「え、なに? いとこじゃないの?」

 シャツをつかまれたままの要が二人を見比べると、初音は湊人の手をほどいた。

「私の異母兄弟よ。会うのは父のお葬式以来ね」

 湊人がゆっくりとうなずくと、初音は肩を押して外階段を登りはじめた。

「おいていくなよ。俺だってはっちゃんから話聞きたいのに」

 初音は困った顔でふりかえった。

「高村さんも上がって行ってください」
「はい、罰金ひとつね。高村さんもアウトだから、もうひとつつけちゃう」

 要がおどけたそぶりでそう言うと、初音の眉間から力が抜け、「うちでごはん食べてって」と苦笑した。



 大野家に上がると、要たちは小さなダイニングテーブルの前に腰をおろした。
 初音は並べたグラスに麦茶をつぎながら言った。

「よくこの家をおぼえてたね」
「……高校の友達がこの公団住宅に住んでて、何度かおばさんの姿を見たことがあったんだ。懐かしい感じがして、直感的に大野のおばさんだって思った。昨日はその友達に誘われてライブに行ったんだ。あの曲を弾いたのが初音さんだとは思わなかったら、名前を聞いてびっくりしたよ」
「お父さんの曲……湊人も弾けるんだね」

 うなずいたものの湊人の視線はテーブルの上から動かなかった。
 湊人はゆっくりと背中を丸めると、そのまま頭をテーブルの上に乗せてしまった。

「どうした?」

 要が聞くと、湊人はうつろな目をして言った。

「おとといの夜から何も食ってなくって……」

 初音の表情が見る間に曇っていく。

「どうして食べてないの?」
「……一週間前に、母さんの男に家を追い出された。二日前まで友達のところを泊まり歩いてたけど、長くいると親がいやそうな顔をするし、行くところがなくて金もつきて……」
「昨日の夜はどうしたんだ」
「近くの公園にいたけど、雨でベンチが乾いてなかったから眠れなかった」

 要は頭を抱えた。父がいない間、時任家に転がりこみ、時任の老いた母親の愚痴ばかり聞かされ、行く当てもなく公園を彷徨っていた日々のことがよみがえる。

 髪をくしゃくしゃとかきむしる。ふと初音を見ると、要よりさらに眉間にしわをよせていた。グラスを握った手が怒りに震えている。

「お母さんの男って、どんな人なの?」
「母さんが働いてるスナックの客で、金を借りてるって言ってた。何ヶ月か前からオレを追い出すようになったんだ。何度か抵抗したけど、あいつ母さんも殴るから」

 声は静かだったが、湊人のきつくむすんだ口元に怒りがあらわになっていた。瞳の先に男の姿が見えそうなほど憎悪に満ちた表情をしていた。
 初音はグラスをテーブルにおいて勢いよく立ち上がった。

「湊人くん、携帯電話かして。お母さんに電話かけるから」

 そう言って湊人の顔の前に手をつきだした。唖然とした顔で彼女を見上げている。
 湊人は口を開けたまま携帯電話を取り出した。

「充電、切れてる」
「じゃあ家まで行くよ。住所、教えて」

 言うやいなや和室に飛びこんで白いブラウスをはおったかと思うと、足を踏みならしながら携帯電話やハンカチをハンドバックに押しこみ始めた。
 さすがの要も口をあけて様子を見ていたが、初音に腕をつかみあげられてしまった。

「なんで俺まで」

 怒りを触発しない程度に抵抗したが、行ったところで事態が好転することはないと思っていた。人の意志も行動も簡単には変わらない。父や時任の放浪癖、湊人の母親に見え隠れする他者への依存性。長年の習性なら他人があがいたところでどうにもならない。

「だってこのままじゃ、また殴られるじゃない」

 初音の目じりから涙がこぼれ落ちそうになっている。
 ゆっくりと初音の指をほどいてから、湊人にむかって言った。

「今夜から俺の家にこいよ」

 画面の消えた携帯電話を見ていた湊人が顔を上げた。

「ボロ屋だけど部屋は余ってるし、親父も滅多に帰ってこないから。高校も俺の家から通えばいいよ」
「それって……居候ってこと? でも俺、赤の他人なのに」
「ちょこっと掃除してくれれば、すっごい助かるなあ」

 湊人の肩に手を置いた。要の目をのぞきこんでから、首をふって初音を見た。
 初音もまた目を丸くしていた。

「そんなこと……本当にいいの」
「もちろんだとも。お駄賃としてあの曲を弾いてくれたら嬉しいね」
「……ほんっとうにしつこいのね」

 ハンドバッグをおいて初音は言った。わずかに口元が上がり、怒りが勢いを失っていく。
 湊人は消え入りそうな声で「ありがとう」と言った。

「よし、じゃあお昼ごはんでも作ろうか」