ファースト・ノート 1~3
ドラマーは数秒のあいだ初音を見ていたが、ふいに顔を正面に戻した。横顔が見えているのに、気配はまだこちらにとどまっているようだ。
要に言われるままに数曲通してサウンドチェックを行う。
最後に例の曲を通してみることになった。
ピアノとギターに加えて、芽衣菜がコンガを叩き始める。
ピアノを弾きながら斜めうしろを見ると、幕間にドラマーが立っていた。スティックを脇に抱えて、演奏に聞き入っているようだ。今度は目があっても離さない。
インディーズのライブだからと気軽な気持ちで参加したのは間違いだったのかもしれない、と初音は息を飲んだ。
ドラマーの鋭い視線に終始、何かを試されているような気がしていた。
日が落ち、あたりが薄暗くなったころ、ステージ下のベンチは観客で埋まっていった。
初音はステージのそでから、薄紫色に染まる観客たちを眺めていた。
「よう」
ふりむくとあのドラマーが立っていた。演奏中よりは幾分おだやかな目をしている。
「新進気鋭のピアニストだっけ。要から聞いてるよ。俺は深町晃太郎。よろしく」
「大野です。よろしくお願いします」
差しだされた手を握りかえした。肉厚の大きな手をしている。
「ふーん、いい指してるな」
晃太郎は手を離そうとしない。品定めをするように表裏をひっくり返す。
初音は手をとられたまま、要のほうに首をのばして小声で言った。
「ちょっと、新進気鋭とか、勝手なこと言わないで」
「どんなプレイヤーかって晃太郎が聞くから、そう言っといただけだよ」
薄暗がりの中でギターを鳴らしながら言った。睨みつけても素知らぬふりをして弦を弾き続ける。
「深町さん、全然そんなじゃないんです」
「晃太郎でいいよ。あんたと同い年だから」
とても同年代とは思えない余裕のある表情で、あっさりとそう言った。
あっけにとられていると、晃太郎のうしろから小柄な男がひょいと顔をのぞかせた。
「僕のときも同じこと言ってましたよねー」
エレキベースを持った男が晃太郎の顔をのぞきこむ。丸く黒い瞳に上向きの小さな鼻、少し出っぱった前歯が、うさぎを思わせる顔立ちをしている。
「ベース担当の館山修介です。この人、誰にでも同じこと言うんですよー。見るからにおっさんなのにねえ」
晃太郎は横目で修介をにらむと、頭をこづいて言った。
「年なんてどうでもいいんだよ、みんな俺と同い年でいいの。ま、本番楽しみにしてるよ」
スティックをふりながら立ち去ってしまった。あわててついていく修介とともに、晃太郎がはいていたワークブーツの音が遠ざかっていく。
「どうみても年上よね……三十歳くらいじゃないの?」
そうつぶやくと、要はギターを弾く指を止めて言った。
「うそだろ。俺、最初からタメ口なんだけど」
「だまされてるんじゃない?」
「つかみどころがないんだよなあ。ドラムは一流なんだけどね」
要は苦笑いをしながら言った。
サウンドチェックを聞いただけでも、並大抵のプレイヤーではないことがわかる。あれほどの力強さをもちながら、かつ繊細で緻密なリズムを生み出していた。
リハーサルのとき、少しでも気の緩みを見せようものなら、すぐに噛みついてきそうな獣のような目をしていた。あの目が本番中はりついているのかと思うと、身震いがする。
要が初音の手をとってギターの弦にふれさせた。ゆっくりと上下させて音を鳴らす。弦のざらついた感触が胸のつかえを落としていく。
「緊張することないよ。晃太郎は音楽に真面目なだけだから」
スタッフが、本番五分前です、と声をかけにきた。要は手をとめてギターを下ろす。
「じつは俺のバックバンドに生のピアノ演奏が入るのって初めてなんだよね」
要の言っていることが即座には飲みこめず、初音は声を荒げた。
「うそでしょ。抜けたピアニストの代打が必要だからって芽衣菜に頼まれたのに」
「そう言わなきゃ引き受けてくれないって芽衣菜が言うからさ。ピアノはずっと打ち込みでやってきたんだけど、芽衣菜の大学時代のライブ映像を見て、あーこのピアニスト、絶対ライブに出てもらうって俺が決めたの」
開いた口が塞がらないとはこのことだと思った。要は呑気に微笑んでいるが、返す言葉がなかった。
「今夜はきっと最高の演奏ができる」
要の声と笑顔がすっと胸の中におりて、粉砂糖のように溶けてゆく。その液体は初音の全身をめぐり、熱い血を流す。
「行こう」
客席から激しい歓声の波が襲ってくる。真正面からスポットライトの白い光が下りる。先に進んだ要が、オーライという口の形をして腕をふる。初音は観客席を見ないようにして下手におかれたグランドピアノを目指す。
要がギターのネックを握り、マイクスタンドの前に立つ。
あたり一帯の無音をかき集めたような、深く果てのない静けさが広がっていく。
鍵盤に指をそろえて呼吸を整える。要がこちらを見ている。指先に力をこめる。
初めにひとつの音。ふたたび静寂。残音の粒子が飛びかう空気に、和音が溶けこむ。
初音にピアノを教えたのは父だった。五歳のときに両親が離婚したため、それまでのわずかな時間だったが、このころの経験が初音の基礎を築きあげている。
父はプロのジャズピアニストで、あまり家に帰らない人だった。切れ長の一重まぶたに、耳にかかるほどに切りそろえられた黒髪。背がすらりと高く、本番用の黒の燕尾服がよく似合っていた。人気も実力も兼ね備えたピアニストだったが、生活能力のない人だったそうだ。ライブの収入は交際費や衣装の購入に回され、湯水のように消えた。
母には父の曲を弾かないように言われてきたが、プロの道を断念した今でも父が作った曲を捨てられずにいた。
ひさしぶりのグランドピアノの響きに、体のコントロールがきかないほどの高揚感をおぼえる。フレーズの合間に入ってくるギターの響き。あおるようなストローク。ピアノとギターの音色が入り混じり、曲の持つ可能性が何十倍にも膨れあがる。
父が作った曲に初音が息を吹きこみ、そこへ要が無数の彩りを散りばめる。
親の帰りをただひたすら待っていた頃の懐かしい痛みや、自分の存在意義を疑った思春期の苦しみが不意によみがえり、それが要の記憶の奥底から滲み出して共鳴していることに気づく。
恨みと失望と嫉妬にさいなまれたどす黒い感情をかき消したくて、無心に音をつづる。
手に勢いがつきすぎてとまらない。要が作った新しいアレンジには高速のパッセージがあちこちに姿を現し、居場所を見失いそうになる。要の感情に引きずりこまれていく。芽衣菜が強くコンガを叩いてブレーキをかける。初音は少し勢いを落とす。緊張がゆるんだところで額から汗が流れ落ちる。再び要があおりだす。
曲の絶頂に達すると、観客席から歓声が巻き起こり、プレイヤーのあいだに自然と笑みがこぼれた。
ここまでくれば、あとはゆるゆると下っていくだけだ。そう考えた次の瞬間――。
作品名:ファースト・ノート 1~3 作家名:わたなべめぐみ