ファースト・ノート 1~3
観客席の中に、いるはずのない母の視線を感じた。五百名もの観客の中からたったひとりの人間を見つけ出すことは不可能に近い。今日は仕事で遅くなると言っていた。いるはずがないのに――この曲は弾かないでって言ったでしょ!
頭の中で頬を叩く音がはじける。こめかみから生ぬるい汗が滴り落ちる。指が震え始める。指先から急速に熱が失われていく。大学三回生の冬、母にかくれてライブに参加した、あの夜と同じつんとした刺激臭が鼻の頭をかすめていく。
母がそこにいて、ピアノを聞いている。
要の視線を感じたが、ついに最後まで目をあわせることはできなかった。
演奏後、要のバックバンドのメンバーが後を追ってきた。
肩をつかんだのは晃太郎だった。顔中に失望の色が浮かんでいる。
「なんだ最後の失速は。まわりの連中は要を引き立たせるためにピアノが引っ込んだと思ったみたいだがな、リハーサルの時はああじゃなかったはずだ」
初音が何も言えずに硬直していると、うしろから要が姿を見せた。
「おっかしいなあ。なんで最後はああなっちゃったの? 途中までいい感じだったのに。期待外れっていうか」
最後まで言い切らないうちに芽衣菜がやってきて初音の腕を引っぱった。
「ごめん初音。やっぱやるべきじゃなかったよね」
芽衣菜は二人に聞こえないように小声でそう言った。初音は体の底のから吹き出してくる震えを押さえようとしながら頭を下げた。
「私こそ、もう大丈夫なんじゃないかって油断してた。大事なライブだっていうのに、本当にごめん」
痙攣する指をこらえながらあの曲を何とか弾ききり、そのあとの要の曲につなげたが、失態を犯したことに気づいた人間も多くいるはずだ。後悔しても遅いのはわかっているが、やはり自分は本番の大舞台に立てないのだという現実を突きつけられた気がした。
逃げるようにステージ裏の階段を下りたところで、五メートルほど先にたつ十五、六の少年と目があった。深くかぶった赤いキャップから、茶色く染めた前髪がのぞいている。
どこかで見たことのある瞳が鈍く光っている。
「なんであの曲が弾けるんだ?」
不意の問いかけに、オーバーヒートした思考回路がついていかない。
「あの曲って……?」
「とぼけるなよ。最初にやったアレだよ」
とげのある言葉づかいに、苛立った神経がより刺激させられる。
一息大きく吸って頭に酸素を送り、目に力をこめた。
「なんでって、あれは私の曲なのよ」
少年が威圧的な目で初音を見上げる。
「あんたが作ったわけじゃないんだろ?」
「それはそうだけど」
何故この少年がそんなことを知っているのか、疑問が頭の中を錯綜するが言葉にならない。彼もただ、じっと初音を見ている。
「誰? 初音の知り合い?」
訝しげに言った芽衣菜の言葉に、少年が反応した。意志の強そうな目が見開かれる。
「……初音?」
少年の発声の響きに初音の心臓がどくんと波うつ。
カセットテープの巻き戻しよりも速いスピードで記憶が勝手に過去にさかのぼっていく。
少年の声はノイズの中に巻きこまれる。
そのとき客席のほうから「ミナト、早く戻ってこいよ!」という叫び声が聞こえた。
彼は反射的に踵を返し、一歩うしろに足を踏みだした。
「オレもあの曲、弾けるよ」
走り去っていくうしろ姿がスローモーションで展開する。小麦色の腕に革製のブレスレットが揺れる。快活でしなやかな筋肉の動き。雨上がりの地面に残される無数の足跡。
芽衣菜が真横に立って初音の顔をのぞきこんでいた。遠ざかっていた記憶が急速に巻き戻るが、はっきりと形を成さない。
「……湊人?」
走り去っていった少年の背中を探した。薄闇の中に埋めつくされる人々、絶え間なく湧きおこる歓声、それにこたえる激しいノイズ。
ふたたびステージを見上げる。眩しすぎて思わず目を閉じてしまう。
作品名:ファースト・ノート 1~3 作家名:わたなべめぐみ