ファースト・ノート 1~3
1.イントロダクション
霧雨のあとを縫うように、夕陽が野外ステージを照らす。いくら手を伸ばしてもつかむことのできなかったあの場所が、あっけなく初音の眼前に迫ってくる。
アコースティックギターを片手に持った要がすぐ前を歩いている。
数時間後には何百人もの目にさらされるというのに、首元のよれた白いTシャツに泥だらけのスニーカーをはいている。
「あのさあ、はっちゃん」
きついパーマをあてたようなくせ毛が揺れて、要がふりむいた。
呆然とステージを見上げながら歩いていた初音は、要の背中にぶつかってしまった。
「高村さん、どうして私のことをそう呼ぶんですか」
「前も言ったけど、同い年なんだから敬語を使うのやめてよね。俺のことは要でいいし。そうそう今夜の演目だけど」
初音の隣に並んで肩をぐいと押すと、ひとりで勝手にしゃべり始めた。
まったく話がかみあわない。対面していてこの調子なのだから、メールでやりとりしていたときはもっとひどかった。こちらの意志は伝わらず、何を尋ねてもまともな返答はない。業務連絡のような内容が届くばかりだった。
パーカッションを担当する友人の芽衣菜に頼まれなければ、この場に来ることもなかっただろうと思うと、ため息が出てくる。
初音の水色のパンプスに泥がはねるのもお構いなしで、要は通りかかるスタッフたちに挨拶をしている。初音は調子を合わせて頭を下げる。
夏の到来を思わせる生暖かい風が、初音の頬をさらっていく。
長い髪を耳にかけながらも、初音はステージから目を反らせないでいた。
見上げるように高い舞台に、無数の音響器具が並んでいる。中央には要が使う予定のマイクスタンドとギタースタンドが揃えられている。
ステージの下手にあるグランドピアノが鈍い光沢を放っている。
学生の頃はいつもそこに自分の姿が見えていた。大学時代にライブを共にした芽衣菜と同じく、近い将来そこは人生の定位置になっているはずだった。
本番はいつぶりだろうと、指折り数える。
たった一年しか経っていないのに、自分とステージに隔たる巨大な壁を感じずにはいられなかった。
要がぐいと腕をつかんで言った。
「もちろんあの曲は弾いてくれるよね」
「あの曲って……」
「芽衣菜と家に行ったときに弾いてたやつだよ」
要に会ったのはつい二週間前のことだ。出演できなくなったピアニストに代わってライブに出てくれないかと芽衣菜に頼みこまれ、しぶしぶ了承の返事をしたらその日のうちに家に押しかけてきた。
その日は勤め先の旅行代理店の定休日で、朝からピアノを弾いていた。高校で英語教師として働く母もいないことだしと羽根を伸ばして弾いていたら、インターフォンが鳴った。
付き合いの長い芽衣菜はともかく、母子二人暮らしの家に要まで上がりこんできたときはさすがに追い返そうかと思った。
手土産はライブ用の楽譜と音源だった。ダイニングに上がるなり、その時弾いていた曲について要が聞いてきた。
「あれは人前では弾けないって……」
初音がうしろに引きさがろうとすると、幕間から芽衣菜が姿を見せた。
長い髪を頭の頂点でまとめ上げ、腰にはアジアン風の布を巻きつけている。
「やっほー初音。勘は取り戻せた? 昨日も要とスタジオで合わせたんでしょ」
「それは問題ないんだけど、あの曲はできないんだって芽衣菜からも言ってよ」
要の腕をふりはらうと、初音は息をついた。170センチある芽衣菜が、額がつきそうなほど要に顔をよせる。
「しつこいねーあんたも。できないって言ってるんだから、あきらめたら?」
「いーや。絶対やるって決めたもんね。ほら見て、コードも書き起こしてきた」
俺のやる気を見ろと言わんばかりに、要はジーンズのうしろポケットから四つ折りにした紙を取り出した。汚い文字でコードが書きこまれている。
「どう。だいたいあってる?」
「そうね、こことここはセブンスで、こっちはフラットファイブを加えれば……」
どこからボールペンを取り出したのか、初音が言う先からコードを書き加えていく。
要のどんぐり眼が初音の指摘を待っていることに気づいて、指を引っ込めた。
「やりませんってば」
「じゃあちょっとだけ聞いてよ、俺のアレンジ」
ギターのストラップを素早く肩にかけると、初音が返事をする間もなくギ
ターのボディを叩いてカウントを取り始めた。
要の太い指がゆっくりとアルペジオを紡ぎだす。やわらかい音色が鼓膜をくすぐる。
期待していたところでメロディが始まらない。どうやらギターはバッキングを弾いているらしい。頭の中でピアノの演奏を重ねてみる。初音が作った旋律にギターの響きがそってくる。胸の底がざわつき始める。新しい音があふれ出して止まらなくなる。
ふと気づくと要が左頬にえくぼを作って微笑んでいた。
「イントロで六コーラスくらいやってさ、俺の曲につなぐの。キィがBフラットで同じだから、絶対うまくいくよ。やってみたくない?」
初音は勝手に動いていた指先を手のひらの中に折りこんだ。芽衣菜に助け舟を出してもらおうと視線を送ったが、彼女もまたリズムを思い描いていたらしい。
「こいつ、かなりしつこいからね。本番直前まで言われるくらいなら、リハでやっといた方がいいんじゃない?」
そう言うと芽衣菜は体でリズムを叩きながら階段を上がっていった。耳たぶで小さな星形のピアスが揺れている。漏れ出す鼻歌を聞くかぎり、彼女もやる気になっているらしい。
浮かんだイメージを形にしたい――そう思うと、一度波立ってしまった感情を押さえられそうになかった。
「今回だけですから」
初音がつぶやくと、要が目を見開いた。
嬉々した表情で手のひらを掲げ、「今夜はよろしくね」とハイタッチを求めてきた。
インディーズのレコード会社が主催するこのライブには、メジャーデビューを目前に控えたバンドが多数出演すると聞いている。要はトップバッターだ。
舞台上には芽衣菜の他にベーシストとドラマーが待機している。
要はソロの弾き語りをやっている。芽衣菜たちは正規のバンドメンバーではなく、バックバンドという位置づけだ。
幕間の影からグランドピアノが見える。鈍い足取りとは裏腹に心臓が強く胸を打つ。
皮膚を震えさせる巨大な音の波が、眠っていた細胞をよみがえらせる。
要の指示をうけて、グランドピアノの前に着席する。初音が鍵盤のふたを開けようとすると、ドラムの激しいうねりが鼓膜を襲った。
黒のVネックのTシャツにベージュのコットンパンツをはいた男性がライドシンバルを軽快に叩いている。無秩序に聞こえる音の粒の中にはっきりとしたリズムの根幹を感じる。なめらかな腕の動きとは対照的に胴体部分はほとんど動かない。紫色のリストバンドと、小さなシルバーピアスが小刻みに揺れる。
細めた目は観客席の遥かかなたを見つめているようだった。
音がやんだと思ったら、ドラマーと目があった。
短く切りそろえられた栗色の髪から汗が伝う。
作品名:ファースト・ノート 1~3 作家名:わたなべめぐみ