連載小説「六連星(むつらぼし)」第71話~75話
響が、小さく吐息をもらす。
「君は、優しい子だ。
だが福島第一原発の事故は、君たちの世代へ、きわめて困難な宿題と、
未解明だらけの廃炉への道という途方もない負の遺産を残してしまった」
ポケットを探り、禁煙パイプを取り出した杉原が、響の目を見つめたまま
さらに言葉を続ける。
「あれから一年。
今なお不安定な状態が続いている福島第1原発の、1~4号機の直近に、
急ごしらえの救急医療室(ER)が、設置された。
『5、6号サービス建屋1階救急医療室』という名称で呼ばれている。
通称は、『56(ごろく)ER』だ。
原子力災害の最前線で働く作業員の安全を、24時間いつでも
支えるためにつくられた医療施設だ。
56は、2011年の7月に設置された。
2月までの244日間のうち、63日を、福井県からの派遣医師団が担当した。
原発の先進地。福井から派遣された、被ばくの専門のグループだ」
福井県には、日本で初めて作られた美浜原子力発電所がある。
高速増殖炉の「もんじゅ」を含め、全部で14基の原子炉が設置されている。
最先端の原子力の研究や、人材育成ためののポテンシャルも持っている。
集積した原子力の先進地として、常に先頭を担ってきた。
福島第一原発内につくられた『56ER』は、被ばく医療が原発労働者たちにとって、緊急に差し迫ったものであることを意味する。
56ERには、医療室と処置室を合わせて、84平方メートルの空間が有る。
簡易ベッドが並んだこの医療施設には、原発が持つ『核』の危険性を、
あたらめて白日のもとにさらす、きっかけになった。
さらには原発労働者たちの深刻な被ばくの実態を、世間に
知らしめる契機になった。
最前線に立つ56ERの装備は、厳重だ。
窓のすき間は、すべてテープによって目張りされている。
換気は専用機器をつかい、放射性物質をすべて除去できるようになっている。
男性医師、看護士、放射線技師の3人1組が、24~72時間の
体制で常駐する。
けがや急病で運ばれた作業員に、基本的な治療をおこなう。
重症者が発生すれば、救命措置や搬送の任を負う。
福井県からは、7人の医師が交代で現地入りを続けている。
『それでも・・・』と杉原医師は言葉を続ける。
「原発内では、直接の被ばくもあるが、怪我やちょっとした切り傷からも、
放射性物質は体内に侵入する。
例えば電動工具での切り傷なども、それにあたる。
通常のように、単純に縫合処置はできない。
傷口から、放射性物質が体内に入っていないかの確認が必要となる。
事故は、常に突発的に発生する。
爆発の危険や、外部に放出される放射性物質の量が減っても、
構内での作業は安全にならない。
見えないところに、つねにたくさんの放射性物質が浮遊しているからだ。
危険きわまりない、こうした最前線での医療活動には、
なんらかの際に、高度に被ばくするというリスクが、常に付きまとう。
しかしそれでも彼らは、今日も放射能と闘っている」
東京電力の発表によれば、56ERの受診者は昨年7月の設置以降、
今年2月までの8カ月で140人が運ばれている。
夏場は熱中症などが多かった。そのうち救急搬送された人は25人にのぼる。
しかし56ERの救急医は、重篤なけが人や病人があっても動じない。
目に見えない放射線でも、『線量計で危険を判断すればいい』と言い切る。
しかしそれでも、不安が無いとは言い切れない。
世界最悪となってしまった福島の、原子力災害の現場では
かつてない敵との闘いによって、常に極度の緊張が強いられている。
とんでもない強さの放射線が、いつ飛んでくるかもしれないという
不安はがある。
そのことが常に、我々の心のどこかに潜んでいる・・・・と、
関係者のひとりは、その本音を語っている。
作品名:連載小説「六連星(むつらぼし)」第71話~75話 作家名:落合順平