紫音の夜 4~6
ピアノの上には譜面が散らばったままになっている。
何か一曲吹いてみようかと思ったが、書きなぐったようなタイトルを読むことすらできなかった。
そこへトロンボーンをもった風子が入ってきた。
「葉月ってアルトサックスも吹けるの?」
心臓が飛び出しそうになった。
葉月はあわててストラップから楽器をはずした。
「ううん、ちょっと吹かせてもらおうかなっと思ったんだけど、全然吹けなかった」
「えーと、そのアルトって黒川真夜くんの、だっけ」
風子は真夜の楽器ケースを見ながら言った。
彼のケースには大きなステッカーが貼ってあって、見慣れた人間ならこの楽器が誰のものかすぐにわかる。
何か言いたげな顔で葉月をじろじろと見た。
ばつが悪くなり、葉月はアルトサックスを置いてスタジオを出ようとした。
「この前、鞍石さんとカフェに入っていくのを見たけど、最近どうなってるの?」
「どうもありません」
また始まった、と思いながら葉月は苦笑いした。
「そーお。で、葉月は黒川くんが好きなんだ」
「そんなこと一言も言ってないけど」
「じれったいわねーあんたって。自分からアプローチなんか全然しないし。でも黒川くんはやめときなよ。口うるさい女がいたでしょ」
「そんなの別にかまわない」
切り捨てるようにそう言って、風子を見た。
できるだけ感情の色を出さないように平坦に言ったつもりだったが、彼女がどう受け止めたのかはわからなかった。
「六時からコンボの練習が始まるから、探してくるね」
背中に風子の視線を感じながら、第二スタジオの外に出た。
あたりはすっかり暗くなっていた。西の空に夕月が浮かんでいる。
人の集まるところにはおそらくいないだろう。
どこに行くか考えた末、音楽練習棟の裏にまわってみることにした。
裏側に続く道はなく、外周は伸び放題の草に覆われている。
柵の外側に立つ外灯のおかげで視界はそれほど暗くはなかった。
膝の高さまで伸びたエノコログサを踏みつけながら、棟づたいに歩いていく。
誰かが足を踏み入れた形跡がある。
一度ではなく、何度か通ったことがありそうだった。
練習棟出入り口のちょうど真裏あたりに人がいた。
背もたれのない椅子に前かがみになって座り、手に何かをもっている。
顔は見えないが、紫色のストライプシャツに見覚えがあった。
わざと足音を鳴らしながら近づいて、正面に立った。
真夜は上体を起こさなかった。
「何してるの、こんなところで」
ゆっくりと顔が上がる。 目はうつろで、口が半開きになっていた。
くちびるが乾燥して皮がむけている。
手に持っているのは何か飲み物が入った紙コップだった。
「篠山さんこそ」
「私は散歩。練習、疲れたから」
適当に返事をして、しゃがみこんだ。すぐ近くで虫の音が聞こえる。
「よくここがわかったね。僕の穴場だったのに」
「考えたよ、真夜がいそうなところ」
「ばれちゃったなあ」
真夜は視線を落した。
目の前の白いペンキがはげ落ちた柵ばかり見つめて、なお葉月を見ようとしない。
首からストラップが情けなく垂れ下がっていた。
「ねえ、葉月さん」
「なあに」
「僕、昨日の夜、数字の7になったんです」
葉月は眉をよせた。
「僕は7になって、友達は1になったんだ。そして踊り狂った。最高だったよ」
真夜の不健康そうな顔を見つめる。
瞳の中には光がなく、冗談なのか本気なのか判別がつかなかった。
「夢の話?」
「違うよ、現実だよ。そのあと2になっちゃったんだけど、あれはダメだったなあ。やっぱり7が最高に気持ちよかった」
「どういうこと」
真夜は答えず、笑っていた。恍惚の面持ちに寒気が走る。
黙っていると、真夜は何度か口を右下に引きのばした。
最近よく見せる変な癖だ。あまりいい気分がしない。
真夜の両肩をつかみ、顔をのぞきこんだ。
「答えてよ」
真夜から表情が消える。
半開きだった口を閉じ、街中なら挙動不審で捕まりそうなほど大げさに首をふってあたりを見回した。
紙コップから茶色い液体が数滴こぼれた。
葉月が肩から手を離すと、真夜は人差し指を立てた。
「絶対、内緒だよ」
訳が分からないまま、葉月はうなずいた。
真夜は再びあたりを見渡し、顔をよせてきた。
「昨日ね、友達と一緒に気持ち良くなるお薬、キメたんだ。そうしたら数字になれた。五人いて、落ちちゃったやつもいたけど、僕と友達は踊った。アメリカ兵みたいなやつでさ、あいつの踊りは最高だったよ。葉月さんにも見せたいくらい」
真夜は笑った。先ほどよりも楽しそうだった。踊りを再現しようと手を振り始めた。
自分の呼吸が止まったように息苦しくなった。心臓が体の内側からうるさく打ちつける。
踊る真夜の姿が思い浮かぶ。アメリカ兵と手を取りあい、笑って体をくねらせている。
生々しい笑い声が耳の奥で響く。
頭が割れそうなほどの強烈なハウリングが葉月の鼓膜を襲う。
「真夜、薬ってまさか……」
真夜は手で葉月の口をふさいだ。
目を見開いて歯をむき出しにしている。
体を左右にふって周囲を警戒するような様子を見せる。
葉月の口から出かかった言葉がおさまったのを確認すると、真夜は手を離した。
「声が大きいよ」
全身の力が抜けていくのを感じた。へたり込んだ地面が少し湿っていた。
「どうやってそんなもの……」
「東京で買いつけてくる友人がいるんだ。やめときますって断ったんだけど、ちょっとくらいなら大丈夫だからって勧められて、つい。僕はまだ初心者だから、すぐいっちゃう」
真夜は頭を下げ、煙を吸うようなそぶりをして笑った。
不調と薬、どちらが先なのかわからないが、思いあたる点はいくつかある。
刻みこまれた目の下の隈、肉が落ち始めた頬、土色の荒れた肌。
葉月を不快にさせる、口を右下に引きのばす癖――度重なる失敗、譜面のど忘れ。
葉月はうつむいたままの真夜の膝に手をおいた。
「もうやらないって、ここで約束してよ」
「篠山さんに?」
「そうだよ。やめないと鞍石さんと高木さんにばらすから」
「だめ! 絶対に内緒だってば!」
ぼんやりしていた真夜が突然、正気になったように目を開いて声を上げた。
「じゃあ約束して。もうしないって」
「わかったよ。もうしないよ。だから言わないでよ」
納得いかない返事だが仕方ない。
現場を押さえることはできないだろうし、自分にやれることはやめろと言うことくらいだった。
葉月は息を吐いて立ち上がった。
「戻ろう。もうすぐコンボの時間だから」
土をはらって歩き出すと、真夜は紙コップに入っていた液体を地面に捨てて、黙ってうしろをついてきた。
何度かふりかえったが、真夜はうつむいたまま目を合わせようとしなかった。
踏みつけた草からむせるような青臭いにおいが立ち上る。
来るときはちゃんとついていた外灯が、細かく明滅していた。
背中からのしかかる重苦しい空気に耐えられず、葉月は口を開いた。
「真夜、何飲んでたの?」
「ココア。健康的でしょ」