紫音の夜 4~6
6.ハウリング
どんよりと雲が立ちこめる日は調子が悪い。
自分の体の調子が悪いのか、楽器のコンディションがよくないのか、原因はいつもわからない。
この日のように雨が降りそうなにおいがするときは最悪だった。
地下にこもった湿気がまとわりつき、葦でできたリードは鈍い音ばかり鳴らす。
朝から二時間ほど吹いていたが、全く調子は上がらず、テナーサックスを放りだして第二スタジオを出た。
四十分ほど前にアルトサックスを置きっぱなしにして出て行った真夜が、まだ戻ってこない。
音楽練習棟の入り口付近にある喫煙コーナーに行ってみたが、誰もいなかった。
二回目のライブ以来、真夜はどきどき行方をくらます。
喫煙所、自動販売機、ラウンジ、生協、学食と思い当たるところを順に探してみたが、どこにもいなかった。
前回の練習の時も、開始直前になっても姿を見せないので心配していたら、何食わぬ顔でひょっこり戻ってきた。
どこにいたのか聞いても答えなかった。
昼食後、コンボの練習に十五分遅れて、真夜が第五スタジオに入ってきた。
遅刻は初めてだった。
相当あわてたのか短い前髪が跳ね上がっている。息が荒い。
伶次も高木も特にとがめはしなかったが、真夜は眉をしかめてくちびるを噛んでいた。
先に新曲をすませ、レパートリーとして持っている曲をつめていった。
『ティン・ティン・デオ』『シャイニー・ストッキングス』『ストレート・ノー・チェイサー』――どれもライブでやったことのある曲だ。
普段通り譜面を見ずにやっていたが、真夜は何度もつまずいた。
いつもなら失敗してもすぐに持ち直すのに、それができない。
流れを見失った真夜は八小節ほど立ちつくして、やり直しを懇願した。
伶次と高木は別にかまわないと思っているようだったが、真夜の顔には苦渋の色が満ちていた。
できるはずのことが、なぜかできない――そんな面持ちをしていた。
高速パッセージの見せ場にきたところで突然、真夜の指が止まった。
ドラムとベースだけがかけ抜け、アルトサックスのサイドキィのFがむなしく鳴り響く。
真夜は楽器をふり上げたまま、硬直していた。
「どうした?」
高木はスティックをふって伶次を止めた。
真夜はマウスピースを咥えたまま、ゆっくりとアルトサックスをおろす。
そのまま五秒ほど宙を見つめていた。
「ごめんなさい、続きを忘れました。譜面、探してきます」
真夜は第五スタジオを飛び出していった。
残された三人はしばらく黙ったまま視線を交わしていたが、高木がバスドラムを踏むとその空気は破られた。
真夜が息を切らせて戻ってくると、すぐに練習が再開した。
葉月がテーマを歌っている最中も、真夜は譜面を凝視していた。
十六分音符が羅列するところなど、何の音を書いているのかわからないような譜面なのに、それをよりどころに真夜は必死で音を紡ぐ。
誰の耳にもわかるほどぎこちないプレイだった。
譜面を見れば見るほど不安が増すようで、いつもなら何も見ずに吹くカウンターメロディさえも微妙なずれを見せていた。
練習後、声をかけてみたが、真夜はただ首を横にふるばかりだった。
アルトサックスをしまいながら、くちびるを右下に引きのばす。
古ぼけた蛍光灯のせいか、目の下の隈がくっきりと皮膚に刻みこまれてみえた。
伶次に誘われて、帰りは駅前のカフェに立ちよった。
大学が始まってにぎわいを取り戻した駅前の界隈は、最新のファッションで着飾った学生たちでごったがえしている。
流行に興味を持たず過去の曲を掘り返してばかりいる葉月には少し居心地が悪かったが、伶次がドアを開けたカフェの中ではピアノトリオのスロージャズが流れ、気持ちを緩ませてくれた。
「真夜、調子悪そうでしたね」
スタジオを出たあとも、そのことばかりが頭を支配していた。
失敗したときの行き場をなくした音がしつこくリプレイされる。
アイスコーヒーとレモンティーが運ばれてくると、カウンター席の隣に座った伶次がストローの袋を破りながら言った。
「あいつは極端に不安定だからな。一度バランスを崩すと谷底にまっさかさまだ。葉月が入ってきてから、ずいぶん安定したなと思ってたけどね」
伶次はここにないどこかを見つめて、ため息をついた。
「心配か?」
「放っておいたら自分勝手に壊れていきそうだなと思うんです」
「……こういうのは何度も経験してるし、その度に乗り越えてきた。真夜自身になんとかしてもらうしかないよ」
真夜を信頼しているのだと思った。本番で見せる彼の力強いプレイを思い描く。
そばで伶次がベースを弾き、うしろで高木が支えているからこそ、真夜は安心してステージに立てるのだろう。
「鞍石さんがいれば大丈夫ですよね」
「どうかな」
伶次はテーブルの上で組んだ手を見つめた。
手の甲に傷跡が薄く残っている。
思わず他に傷はないのかと探してしまう。
組んだ手が少しずつ開いた。指がひどく荒れている。
親指と人差し指の間は赤い発疹で埋めつくされているようだった。
特に弦をはじく右手の人差し指は、まめができては潰してを繰りかえしているらしく、乾燥して血色を失っている。
弦を押さえる左手も指紋が消えかかり、指を折り曲げると、爪の周囲の皮膚が逆むけているのが見えた。
そこには体の不調とウッドベースを弾くことのせめぎあいがあった。
葉月の視線を感じたのか、伶次はアイスコーヒーに口をつけたあと、手を広げて見せた。
「こんなだからな、俺は。兄貴が死んで七年も経つのに、ばかのひとつおぼえみたいにベースを弾くことしかできない」
その手をまだ治らない首に持っていく。今日は襟付きの黒いシャツを着ている。乾燥して硬くなった指先が、首の皮をこすり落とす。
軽く触っていたが、次第に苛立った面立ちになり、チョーカーを引っぱり始めた。
見ていられなくなり、葉月は傷跡の走る手を押さえこんだ。
「そのチョーカー……お兄さんとおそろいですか?」
伶次は驚いた顔をして手を止めた。
「おそろいじゃなくて、兄貴がつけてたやつだ。遺品整理をしたときに勝手に頂戴した。このブレスレットもそうだ」
葉月の手をカウンターテーブルの上に乗せると、伶次は左手を重ねた。
「手、冷たいな」
「ごめんなさい」
あわてて手を引こうとしたが、伶次はつかんで離さなかった。
なめらかさを失ったざらついた皮膚の感触が、手から腕に伝わって胸をしめつけた。
***
数日後、授業のあとに残って練習をしていると、また真夜が姿を消した。
もう二時間になる。
吹き手を失ったセルマーのアルトサックスだけが置き去りにされている。
葉月はアルトサックスをストラップにかけて息を吹きこんでみた。
全く音が鳴らない。
口を強く締め直してもう一度吹いたが、途切れながらしか音が鳴らなかった。
葉月はマウスピースから口を離して胸にたまった空気を吐き出した。
とてつもなく抵抗の強いサックスだった。
うまく空気を送り込めず、肺が痛くなる。