紫音の夜 4~6
「あの花の香りがだめなんですか?」
「正確には花粉だ。キンモクセイアレルギーってやつ。俺の場合、ほとんどの花粉はアウトだから薬も飲んでるけど、金木犀はいまいち効かないんだ。満開の時期には顔も腫れるし、頭痛もひどい」
普段の姿からは想像できないほど弱々しい声をしている。
葉月には心地よく感じられる香りも、伶次には苦痛でしかないようだった。
葉月は立ち上がると、自動販売機でミネラルウォーターを買った。
「よかったら飲んでください」
「……ありがとう」
伶次はゆっくりと顔を上げた。目にいつものような覇気はなく、顔は色を失っていた。
水を口に含もうとする先から咳がこみ上げてくる。
緩慢な動きで喉を動かして水を流しこみ、左手の甲で口をぬぐった。
一瞬、息をとめ、脱力するように吐き出す。
「先に帰るか?」
葉月は首をふった。
伶次が無理に微笑もうとしたのがわかって、胸が押しつぶされるように痛んだ。
伶次は立っている葉月の姿を見上げて、右手でベンチを叩いた。
腰を下ろそうとすると、彼の手がふれ、伶次は顔を苦痛にゆがめてひっこめた。
手の甲に赤い掻き傷があった。
「どうしたんですか、それ」
まだ真新しい傷だ。 血の気を失った白い肌に、真っ赤な線が途切れながら走っている。触れれば今にも血がにじみ出そうだった。
伶次は困ったような顔をした。
「おぼえてない。ただ、こっちが痛むときは、胸の苦しいのが少しおさまる」
そう言って、指で傷を強くこすった。さらに赤さが増していく。
皮膚を引っぱると傷口がさけそうだ。
葉月は伶次の手首を引っつかんで、傷から指を遠ざけた。
「だめですよ」
「いつものことだから」
伶次は息を吐いた。温もりを失った夜の風が黒髪をなでていく。
葉月は傷に触れないように、手のひらを彼の足の上に置いた。
驚くほど細い手首に黒い皮のブレスレットを巻いている。首につけたチョーカーと同じ素材でできているようだった。
金木犀の香りが鼻をくすぐる。大好きだった気だるいにおいは、なぜか胸をしめつけた。
月のない空に薄い雲が流れていく。かすかに星が光っている。
朽ちたベンチが体を冷やしていく。
自分たちにふれるすべてが、今だけは伶次の苦痛を和らげるものであってほしかった。
***
十月下旬に二度目のライブを迎えた。前回の失敗をくりかえさないために、歌詞を途中から思い出す練習を何十回もやってのぞんだ。
場所は前回と同じ『パーディド』だった。相変わらず「いやだ」「帰りたい」を念仏のように唱える真夜のおかげで、ずいぶん緊張が和らいだ。
どんぐり眼の彼女は始終、葉月を睨みつけていた。
大きなミスもなく淡々とライブは過ぎ去っていったが、真夜に合図を出すのもためらうくらい、強烈な視線を突きつけ続けた。
彼女を意識しすぎたせいか、ライブがどんな出来だったのか、客観的にとらえることができなかった。
伶次も高木も、真夜にはあれこれ言うが、ヴォーカルに関してはアドバイスも指摘もしない。
好きに歌っていいと言うことなのか、直すところもないほど平凡な仕上がりなのか、未だに自分の立ち位置が見つけられずにいた。
後片づけが終わってから、真夜と二人で壁の写真を見た。
真夜は、写真っていいよね、とつぶやいている。
色褪せた写真の中からプレイヤーの情熱が溢れ出してくるようだ。
見るたびに新しい発見があった。
鞍石祥太郎が弾いているのは伶次の部屋にあったものと同じレスポールのエレキギターだ。
葉月は例のプレート付きの写真を指さして言った。
「真夜は会ったことがあるの?」
「祥太郎さんなら、コズミックでやってるのを見たのが最後かな」
「どんな人だった?」
「サイコでエキセントリックな人」
「まじめに聞いてるのに」
「僕もまじめだよ。とにかくすごい人だったんだ。同じ中学高校の連中はみんな知ってた。アメリカに留学するって話もあったけど、どうだったんだろうね」
「へえ……」
葉月は写真を見つめ、真夜は他へ視線を移した。
ボストンへの留学――兄が果たせなかった夢を、伶次が継ごうとしているのだろうか。
「真夜は兄弟いるの?」
「激しい兄がひとりと、うるさい妹がひとり」
どういう意味なのだろうと思って首をかしげていると、スネアドラムのスタンドをたたんでいた高木が言った。
「おまえの兄貴、高校じゃちょっとした有名人だったからな」
「高木さん、知ってるんですか?」
「俺のひとつ下の学年だ。教師なんてくそくらえって態度で問題ばっかり起こして、しょっちゅう呼び出されてた」
「頭がおかしいんです。ただの変人ですよ」
真夜が困った顔で笑ったので、高木さんはそれ以上何も言わなかった。
伶次は咳がおさまったものの、今度はしきりに首元をさわっていた。
チョーカーをつけていない。
タートルネックの服を着ていたので気づかなかったが、よく見るとあごの下の皮膚がかなり荒れていた。
たるんだ皮が赤くただれたようになっている。
「体の具合、よくなってないんですか?」
葉月と伶次は店から引きあげ、路上で高木の車を待っていた。
午後十一時を過ぎても街は活気を失わず、高層ビルが明るく照らし出されている。
行きかう車のヘッドライトにさらされて、薄闇の空は天盤にはりつけられた色紙のように薄っぺらな色合いをしていた。
伶次はタートルネックを引っぱって、のぞきこむような顔をした。
「これか? 年中だよ。今はちょっとひどいけどな」
金木犀が咲き誇っている時期はすぎたが、たしかに顔もすこし赤らんでいるようだった。
「タートルネックが触れて、よけいに痛くないですか?」
伶次は生地の上から首をさわった。
荒れた赤黒い皮膚が上からはみ出している。
「お客さんに見せるの、みっともないだろ?」
伶次は微笑んで見せた。
MCの最中もよく笑っていたが、曲が終わるたびに首をこすっていたのを思い出すと、素直に笑いかえせなかった。
「おまえがそんな顔するなよ。俺は慣れてるから」
ワンボックスカーのエンジン音が聞こえ、伶次はウッドベースを持ち上げた。
いつものように、背よりも高いウッドベースを軽々と運ぶ。
しかし支える手の甲には未だに消えない掻き傷があり、服の下にただれた皮膚をかくしている。
薬を飲んでいる姿を見たことはなかったが、会話の端々からかなりの量の薬を服薬していることがうかがえた。
葉月が知ることのできない何かが確実に伶次の体を蝕んでいた。