紫音の夜 4~6
防音扉のすきまから、大音量のビッグバンドの音色がせまってくる。
OBバンドが全体練習の真っ最中らしかった。
ドラムには高木が座っている。
コンサートマスターが演奏を止めると、高木はスティックを軽く上げて葉月に笑いかけた。
葉月が楽器ケースを持って廊下に出ようとすると、『イッツ・オール・ライト・ウィズ・ミー』のベースラインが聞こえ始めた。コズミックの候補にあがっている曲だ。
伶次はコードだけを書いた譜面をのぞきながら、ものすごい速さで手を上下させていた。
扉の影にかくれて息をのんだ。
ベリーファーストの域に入る320bpmを超えそうな、演奏したことのない速さだった。
うしろから楽器ケースごとぶつかってきた真夜が、葉月の肩ごしに首を伸ばした。
「コズミック用の新曲だよね。今日やるのかな」
「一応、音源はチェックしてきたけど……あれ?」
葉月はショルダーバッグの中に手を入れた。
ビッグバンド用の譜面ファイルはあるのに、歌詞を書いたルーズリーフが見つからない。
真夜をおしのけてスタジオ内に入り直してから、バッグの中身を全部出してみた。
「うそ……歌詞を忘れてきたみたい……」
「ネットで検索すればすぐに出るんじゃないの?」
「それじゃだめなの。鞍石さんがやりたがってたバージョンは、歌詞のあっちこっちが違う言葉に変わってて、そのままじゃうまく歌えないの。だから必死でコピーしてきたのに」
「大丈夫だよ。僕なんて、譜面すら見てないもの」
二人は顔を見合わせた。
真夜はこういう時は何故か余裕があって、どうにかなるという顔をしていた。
経験値の差なのだろうか。余計に焦燥感が募ってくる。
昼からの練習に間に合わそうと思い、足早に第二スタジオにむかった。
第二スタジオに先客はいなかった。
真夜がアルトサックスを用意するのを横目で見ながら、携帯電話を操作した。
急いで紙に書き写して、取れるところまでコピーし直すしかない。
インターネットの読み込みの遅さにいらだっていると、真夜はリードをつけたままのマウスピースを取り出し、さっさとネックに取りつけて吹き始めてしまった。
「そういえば、葉月さん」
名前を呼ばれたことに体が硬直した。
イヤホンの中でキャロル・スローンの歌声が風のように流れ去っていく。
「歌の練習ってどこでしてるの? 家?」
真夜は壁に向かってEの音を長く吹いた。吹き始めとはいえ、相変わらずピッチが低い。
「そうよ。だってみんなが楽器を吹いてるスタジオで、ひとり歌ってたら変でしょ」
基本的にスタジオではテナーサックスの練習しかしない。
複数のプレイヤーが同じ部屋にいると、楽器の音にかき消されて声がほとんど聞こえないこともあるし、他にヴォーカリストのいないこの部の雰囲気の中で、朗々と発声練習をする勇気はなかった。
「変人だね。僕だったら悶え死ぬかも」
そう言ってから、今度はEフラットを吹いた。
これもピッチが低い。順に半音ずつ下がりながらロングトーンを続ける。
葉月は頭の中からアルトサックスの音を追い出して、イヤホンに集中した。
個人練習が始まると、大抵は会話がなくなる。
第五スタジオのような二十畳ほどの広さに十数人が集まっても、みなそれぞれに違うことをする。
サックスの場合、ロングトーンに始まり、舌を使ってタンギングの練習をする。
各音階の復習や、それぞれの楽器の教則本をすすめる。
新曲に目を通し、持ち曲のレベル向上のためにひたすら譜面をめくる。
吹けないところはできるまで何度もくりかえし、疲れたらひとりで休憩に入る。
苦手なキィの克服、ソロやアドリブの練習、デモ曲に合わせて吹き、ときどき仲間と確認し合う。
いつでもやるべきことは山のようにある。
この状態に入ると、真夜は声をかけても気づかないことが多かった。
ある程度アルトサックスを温めたあと、真夜はふたを閉めたピアノの上に譜面を広げ始めた。
例の巨大なヘッドフォンを被ったりはずしたりしながら、楽器を吹いている。
おそらく『イッツ・オール・ライト・ウィズ・ミー』のソロを作っているのだろう。
伶次が用意した音源にはキャロル・スローンの他に、カーティス・フラー&ベニー・ゴルソンの曲も入っていた。
欠けている楽器はあるものの、アルトサックス、ウッドベース、ドラムのソロと続くこの音源は伶次のイメージに一番近いはずだ。
音源だけで一通りは歌える葉月とは違い、コピーだけでは割り当てられたコーラス数が足りない真夜は後半から自作のソロを用意しなければならない。
すでに数十回は聞いている歌詞を書きとめながら、真夜の様子を盗み見た。
途切れるフレーズは少しずつ長くなり、一コーラスにあたる十六小節分が作れると、今度は何度もくりかえす。
さらに十六小節作って、また最初から吹き始める。
結局、昼食を取ることもせず、葉月と真夜はその作業に没頭した。
コンボの練習は一時半から始まった。
あれほど危惧していた『イッツ・オール・ライト・ウィズ・ミー』はやらず、コズミック用の他の候補曲を話し合い、以前にやった曲のおさらいで時間が過ぎた。
葉月はほとんど出番がなかったが、たった一人の特別な観客になった気分で演奏を味わった。
二時間の練習が終わると、真夜と共に安堵のため息をついた。
「次もいろいろやって絞っていくから、葉月もやりたい曲があったら考えといて」
伶次は譜面をまとめながらそう言って、咳をした。
練習中もずいぶん咳きこんできたのが気になっていた。
二軍ビッグバンドのライブが近いこともあり、夜八時まで残ってテナーサックスの練習をしていると、いつの間にか真夜は姿を消していた。
第二スタジオに鍵をかけ、第五スタジオに楽器を置きに行くと、残っているのは伶次だけだった。
「高木さんはもう帰ったんですか?」
「ライブがあるからって六時くらいには出たよ」
ふたりで鍵を持って守衛室にむかう。
すっかり暗くなった大学構内の夜風が気持ちよくてのびをしたが、隣を歩く伶次はしきりに咳をしていた。
おさまってから葉月に何か話しかけようとしていたが、風が吹くたびに咳は強くなって顔色が悪くなっていった。
正門のあたりで伶次は立ち止まった。思うように呼吸ができないらしい。
ゆっくり息を吸おうとするが、波のように咳が押しよせてくる。
完走後の長距離選手のように息が荒かった。
閉門までまだ二時間ある。
とにかくどこかに座らせようと思って、中庭のベンチまで伶次の腕を引っぱっていった。
「風邪ですか?」
「いや……ぜんそく。普段はおさまってるんだけど、今の時期はだめなんだ。調子悪い」
伶次はベンチに座ると、両腕を太ももにのせてかがみこんだ。
胸を押さえている。 喉に空気がひっかかる音が聞こえ、肩が大きく動いた。
風が吹いて甘いにおいが鼻をかすめた。練習に疲れた神経を鎮めてくれる。
顔を上げた伶次が、空気のにおいを探るように鼻をひくつかせた。
「アレのせいだな」
そう言うと、手のひらで顔を覆うようにして咳きこみ始めた。