紫音の夜 4~6
5.掻き傷
その一週間後、本州に季節外れの台風が上陸し、大学は数日のあいだ閉鎖された。
構内の大木が何本かなぎ倒されてしまったそうで、練習に向かうことはできなかった。
二日間、降り続いた雨がやむと、朝の気温が一気に下がった。
窓を少し開けたまま寝てしまったらしく、身震いで目が覚める。
布団からはいずり出て、転がった目覚まし時計をつかまえる。七時半だった。
十一時からのコンボの練習には早すぎると思ったが、まだ音源から歌詞をコピーしきれていない曲もあるので、早めに家を出ようと思った。
淡いブルーのロングTシャツにブロックチェックのパンツを合わせる。
窓を全開にすると、初秋の乾いた風のにおいが吹きこんできた。
空の青がずいぶん薄くなった。
隣家の古い塀から金木犀の葉が顔を出している。
もうじき橙色の小さな花がつくことだろう。
子供の頃は毎日のように花を取っては、怒られたものだった。
襟のついたシャツをひっつかんで家を出ようとすると、弟に呼び止められた。
「姉ちゃん、男の人から電話―」
携帯電話を持ち歩くようになってから、自宅の電話に自分の知人がかけてくることはまずなかった。
「だれ、だれ? 彼氏? やるー」
「誰なのかはこっちが聞きたい」
通話口を塞がずに大きな声を上げてはやし立てる弟を押しのけながら、受話器を奪い取った。
「葉月さん、いますか、だってー」と調子に乗っている弟の声と同時に、低い声が鼓膜を響かせた。
「あ……鞍石さんですか?」
「ごめん、自宅にかけたりして。よく考えたら携帯の番号知らなかったんだ。今日から大学のスタジオが使えるようになったって聞いた?」
「はい、部長から順に連絡がきてるみたいですね」
葉月は肩から掛けるタイプのショルダーバッグをあさって、携帯電話を取り出した。
「台風で延期になってたOBバンドの練習が午前中に入ったらしくてさ、俺たちは昼からしか使えなくなったんだ」
「スタジオ、全部埋まってるんですか?」
「第二は空いてるらしいけど、あそこじゃドラムセットが使えないからね」
日曜の朝から暇をしている小学四年の弟が、興味深々の顔でのぞきこんでくる。
追い払うように手のひらをふると、口元を手で覆うようにして声を出した。
「わざわざありがとうございます。自宅の番号、よくわかりましたね」
「去年は役員やってたから新入生歓迎会のときの名簿があったなと思って、部屋中あさったんだ。まあそれは口実で、声が聞きたかったのもあるけど」
伶次はさらりとそう言うと、照れかくしのように笑った。
遠くの方で何やら音楽が流れている。CDをもらった夜の光景がよみがえる。
葉月は胸が少し痛むのを感じた。
「じゃあ、またあとで」
返答する間もなく、通話が切られてしまった。
しばらく受話器を眺めていると、弟の視線が突き刺さって我に返った。
「年上の男とデートにでも行くのかー。それにしちゃあ色気のない格好だなー」
鳴らない指笛を無理に吹こうとしている。
弟の頭を軽く叩くと、葉月はハイカットのスニーカーに足を入れた。
「コンボの練習だってば」
「いいなー。オレも連れてってよ。姉ちゃんだけサックス買ってもらうなんてずるいー」
「あんたは中学に入ったらギターを買ってもらうんでしょ。早く大きくなりなさい」
からかうように言うと、弟はエレキギターを弾くような恰好をした。
ふと、伶次もこの弟のように、兄の祥太郎から影響を受けてベースを始めたのだろうかと思った。
玄関の隣にある和室から物音が聞こえてきた。
昨年、法科大学院を卒業してからも職に就かず自宅に引きこもっている兄がいるはずだ。
兄は一度もアルバイトをしたことがなく、二十五になる今も生活のすべてを両親に頼っている。
ときどき部屋をのぞいてみるが、熱心に勉強をしているわけではなく、ぼうっとしていたり、寝転んで小説を読んでいたりする。
パソコンと向き合って微動だにしないこともある。
時折、母親を激しく罵倒し、葉月や弟を見下すような視線を下ろしてくることもある。
決して、尊敬したい相手ではなかった。
大学に入ると、歩いている人がいないせいか、いっそう空気が冷えた。
あと数日もすれば後期の授業が始まる。
今のように練習とアルバイトばかりの毎日は終わってしまう。
大学はにぎわいを取り戻し、同じ二回生の真夜も授業中心の生活に戻っていくだろう。
古びた音楽練習棟の前に真夜がいた。
腰に紫色のストライプシャツを巻きつけて、煙草を吸っている。
腰の高さほどの灰皿の前に立って、慣れた手つきで灰を落していた。
細めた目のせいか、吹き出す煙のせいか、老けて見える。
葉月はうしろから近づいて肩を叩いた。
「おはよう。ずいぶん早いね」
真夜はふりかえると同時に、煙草を灰皿に押しつけた。
悪いことをして見つかった子供の顔になっている。
肩を叩いたのが葉月だと認識したのか、肺にたまった煙を空に噴き上げると、だらりと腕を下げた。
「なんだ、篠山さんか。びっくりさせないでよ」
「何時からいるの?」
「今、来たとこ」
「もう吸ってるの?」
「吸わないと死んじゃうから」
灰皿からまだ細い煙が立ちのぼっている。
真夜は足元にあったペットボトルを手に取って、灰皿にミネラルウォーターを流しこんだ。
消え損ねた葉の焦げ臭いにおいがした。
「先週、禁煙するって言ってなかったっけ?」
「ばれました?」
ばれるもなにも、皆の前で公言していたのは真夜自身だった。
今度こそやめると意気揚々と語っていたのに、これでは禁煙ではなく、ほんの少し我慢しただけだ。
「もしかして肩を叩いたの、鞍石さんだと思った?」
葉月がそう言うと、先に階段を下りていた真夜が立ち止まった。
「思った。死ぬかと思った」
「吸っても吸わなくても死ぬんじゃない」
「そうなんですよ。篠山さん、どうにかしてよ」
だったら禁煙するとか言わなければいいのに、と葉月が苦笑しながら言うと、真夜も、まいったと何度もつぶやきながら笑っていた。
地下に下りると第五スタジオの前にウッドベースを抱える伶次の姿があった。
蛍光灯もつけずに薄暗い通路にシルエットを浮かべている。
「早いな、二人とも」
伶次はウッドベースを横倒しにして真夜に歩みよった。
真夜は一歩後ずさりをして、すぐうしろにいた葉月にぶつかった。
「おまえ、吸ったな?」
伶次は咳をひとつすると、真夜のストライプシャツを手に取って顔を近づけた。
前後板挟みにされた真夜は首をうしろにふって助けを求めてきた。
「やっぱりばれてるじゃない」
葉月はため息をついて言った。
伶次を相手に嘘をつきとおせるわけがないのだ。
葉月の一言で救いのなくなった真夜は、不自然な笑みを浮かべて横にすりぬけた。
「におい、わかります?」
「当たり前だろ」
真夜が袖のにおいをかぎながら顔色をうかがうと、伶次はようやくシャツから手を離した。
葉月がくすくす笑っていると、真夜は逃げるように第五スタジオに入っていった。