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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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紫音の夜 4~6

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「ライブが続くといつもこうなんだ。ベッドにでも座ってて」

 言われるままにベッドを見ると、そこはすでに五弦ベースの寝床だった。
 端によけて座ろうとすると、本棚をあさっていた伶次が声を上げた。

「わるい。それ、こっちに貸して」

 行き場所は例の楽器林だった。こうやってあの場所に楽器が増えていく仕組みらしい。

「これ、聞いてくれる?」

 伶次はオーディオコンポにCDをセットすると、葉月にヘッドフォンを渡した。
 葉月をベッドに座らせ、伶次は本をよけながら床に座りこんだ。

 冒頭から観客の声と食器のぶつかりあう音が聞こえる。
 ライブの録音らしい。音源が古いのか、音が遠い感じがした。
 拍手に続いて聞こえてきたのは『オール・オブ・ミー』のイントロだった。

 コンボの構成はテナーサックス、ピアノ、ギター、ドラム、ベースのようだ。
 テーマから男性ヴォーカルの歌声が入った。やわらかく演奏を包みこむような声が響く。
 それに呼応するようにテナーサックスのカウンターメロディが入る。
 温かみのある美しい演奏だった。
 声はどこかで聞いたことがある気がした。
 たとえば目の前にいる伶次の声を少し低くしたような――

「歌ってるのって、もしかしてお兄さんですか」

 伶次は微笑んでクレジットを見せてくれた。
 ヴォーカル&ギターは「鞍石祥太郎」と記されている。
 ドラムには「高木忍」と書いてあった。

 MCの声はもっとよく似ていた。
 言葉のイントネーションも同じだし、笑い声は伶次そのものだった。
 伶次は停止ボタンを押してCDをケースにしまうと、葉月にさし出した。

「あげるよ」
「こんな大事なもの、もらえませんよ」
「兄貴が亡くなってから昔の録音をかき集めて、テナーサックスの吉川さんと一緒に自主制作したんだ。知人に配ったけどまだ残ってるし、篠山さんにも聞いてほしいから」

 返事を待たずに、伶次は葉月の足の上にCDを置いた。
 白と黒のみのシンプルな線画で男性の横顔がかかれている。
 伶次よりも幾分おだやかな気質を表すような微笑みが口元に浮かんでいた。

「ありがとう……ございます」

 葉月はヘッドフォンをはずして伶次に手渡した。太ももの上に置かれたCDを手に取って曲名を見ていると、伶次はヘッドフォンを両手で持ったまま葉月を見上げた。

「篠山さん、俺と付き合ってくれない?」

 伶次の目は磁石のように強烈に人を惹きつける。
 停止してしまった思考回路に血液を送り出そうと心臓が激しく動く。
 指先にまで鼓動が感じられた。
 思うようにくちびるが動かない。
 伶次は持っていたヘッドフォンを無造作に横へやり、身を乗り出して言った。

「俺のこと、きらい?」
「いえ、きらいじゃないです。でも」

 断わる理由は何ひとつ見つからなかった。
 コンボに不慣れな葉月をいつも気遣ってくれていることには気づいていた。
 葉月が入部した時からすでに一軍バンドに所属していた伶次は、遠く手の届かない人物だった。
 数時間前のライブさえも未だに現実感がなく、一晩寝て起きればコンボを組む前の日常に戻っていても不思議ではなかった。

 頭の中で記憶が勝手に再現されていく。
 目の前に埋め尽くされた観客、ロングヘアの可愛い女性、視線の先で真夜がアルトサックスを吹いている。
 肩が触れあいそうな距離で葉月が歌えば、絶妙のタイミングでかぶさりながらカウンターメロディを返してくる。

「誰のことを思い出してる?」

 伶次は足を組み、ベッドに座る葉月を見上げた。
 心臓が握りしめられたように痛む。
 葉月は目をふせた。伶次の瞳はいとも簡単に心の奥深いところまで侵入してきそうだった。

「鞍石さんのことは尊敬してます。でも今は……付き合うことまでは……」

「今は……ね」

 伶次は大きく息をはいた。
 視線を兄のCDにむけ、首を傾ける。

「じゃあ待つよって言いたいけど、あと一年もないからなあ」

 伶次は黒いくせ毛を軽く引っ張った。

「来年の秋、ボストンの大学に留学する予定なんだ。ジャズの勉強をしなおそうと思って。いつ戻ってくるかはわからない」

 強い意志を秘めた瞳がじっと見つめてくる。
 あまりに強くて、葉月はひるんでしまう。

 伶次はふと口元をゆるめて壁時計を見上げた。
 十二時をまわっている。
 葉月は同じように壁時計を見るふりをしながら、伶次の顔を盗み見た。何を考えているのか知りたかった。

「遅くまで引きとめてごめん。うちの車で送ってくよ。CDは持って帰ってくれよな。そうだ、葉月って呼びたいんだけど、いいかな。俺のことは伶次でいいから」

 だめだとは言えなかった。葉月はうつむくようにしてうなずいた。

「高木さんって初めから『葉月ちゃん』って呼んでただろ? あれじつは、かなりうらやましかったんだ」

 伶次は一重で切れ長の目を細めて笑った。
 ライブのスタンバイのときと同じように葉月の腕を引っぱって立ち上がらせる。

 駐車場に向かう途中、伶次は夜空をあおいだ。
 空気の匂いを確かめるように、鼻を上にむけていた。葉月もつられて顔を上げた。
 もう草も香らない。夏が終わっていく。
 立ち並ぶマンションのすきまに、星がかすかに見えた。
 風はひやりと冷たく、熱を持った頬を冷やしてくれた。